カギは人形の"透け感”…『ねほりんぱほりん』が大ヒットしたワケ

トークバラエティの常識が覆された
菊地 浩平 プロフィール

ブタの人形が作り出す、絶妙な距離感

以上が「元サークルクラッシャー」回の概要だ。

放送終了後、この回の内容を巡ってわたしの周囲ではかなりの騒ぎとなった。その一因は人形のカムフラージュとしての機能に加え、"透け感"が生じていたことによると思う。

番組の前半で、サヤカはサークルをいかにクラッシュしたか、彼女が翻弄してきた男たちとの関係、後半からは、元夫や子供のことなどを赤裸々に語る。

前後半でトーンはだいぶ異なるが、生身の彼女の刻々と変わる表情や一挙手一投足が画面に映じられていたら、正視に耐えないものとなっていたはずだ。よってわれわれ視聴者が彼女の話をじっくり「聞く」ためには、ブタの人形というカムフラージュが必要だった。

同時に、ブタの人形がカムフラージュしてくれることで、サヤカという個人の体験したエピソードが一定の普遍性を帯びてくる。

番組前半の突飛なエピソードを聞けば、誰だってサヤカの人間性を疑ってしまう。生身のサヤカを目の当たりにしていたら、彼女自身を非難する声がより高まっていたことだろう。

だがブタの人形を介したことで、そうならずに済んだ。それどころか、サヤカのような一見常識はずれの厄介者にしか思えない人たちも、案外いろいろ事情を抱えているのかもしれないと、ごく当たり前だが忘れがちなことに気づくことさえできる。

ここでもブタの人形が現場と視聴者のあいだを絶妙な距離で隔て、見事なカムフラージュとして機能していることが分かる。

 

"透け感"番組としての『ねほりんぱほりん』

それに加え重要なのは、ブタの人形からサヤカが"透け"ていたという点だ。

サヤカが過去にしてきたことはあまり褒められるものではないが、番組後半に語られる彼女の抱える苦しみは、わたしを含むあらゆる者たちにとって全く他人事ではない。

「何者かになりたい」というような野心がなくとも、人生の局面において自分の選択は正しかったのか考えたり、あの時の行動がいまの自分のふがいなさを導いた可能性について思い悩んだり、誰もが身に覚えがあるはずだ。

そんな時、現場と視聴者を絶妙に隔てる役割を担っていたはずのブタの人形の内奥や背後に、サヤカがほんのり"透け"て見える気がしてくる。

もちろんわれわれはサヤカと対峙しているわけではなく、語られている内容だって断片に過ぎない。われわれ視聴者が、知り得る情報の中からそれぞれ勝手にブタの人形の向こう側にサヤカが"透け"ていると"感"じてしまっているだけのことだ。

しかし、ブタの人形により絶妙な距離で隔たっていることで、かえってわれわれは、自由に/主観的にサヤカや彼女のあれこれについて想像することが出来るのも事実である。

別世界を生きる者にも思えたサヤカが、同じいまを生きる自分を含む"誰か"でもあるのだと。隔たりではなく、そこにはなだらかなグラデーションがあるだけじゃないかと。わたしはブタの人形を"透け"させ、そう"感"じた(皆さんはどうだろう)。

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ついイラっとするのは、彼もまた”透け”ているからに他ならない。

いわば人形というメディアを介したことで、"透け感"が生じ、想像の可能性を閉じずにいられる。そんな風に生身の人間だけではなし得ない表現を、人形を巧みに利用することで可能にしたのがこの番組形式なのではないだろうか。

以上、今回は『ねほりんぱほりん』における人形の機能について、カムフラージュと"透け感"という観点から考えてみた。

取材や準備に手間がかかる上、ゲスト次第でクオリティも左右されてしまう番組なので無理は言えないが、ただのファンとしては10月からはじまるシーズン3の放送がただただ楽しみである。関係者の皆さん、よろしくどうぞ!!

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《参考文献》
NHK「ねほりんぱほりん」制作班『ねほりんぱほりん ニンゲンだもの』マガジンハウス、2017。
マーク・ニクソン『愛されすぎたぬいぐるみたち』オークラ出版、2017。