● 前回記事 → 「日本人が「わら人形」を未だに怖れる理由」
数年前、人形界隈で話題になった1冊の写真集がある。アイルランドの首都ダブリンを拠点に活動する写真家マーク・ニクソンによる"Much Loved"(2013)だ(2017年には邦訳『愛されすぎたぬいぐるみたち』(オークラ出版)が出た)。
ぬいぐるみの写真とその簡単な紹介文からなる本書。掲載された"彼ら"の持主とのエピソードを綴ったテクストも楽しいが、身体の一部が欠損していたり黒ずんでいたりするぬいぐるみたちの強烈なビジュアルについ目を奪われる。
短い紹介文を読んで知り得るのは、持主の断片化されたエピソードに過ぎない。眼前にあるのはうす汚れたぬいぐるみだけだ。
するとわれわれ読者は勝手に、"彼ら"と深く関わってきたであろう"誰か"(持主とは限らない)を透かし見てしまう。だからこそ、かわいいようなこわいような、触りたいような近づきたくないような……。
ぬいぐるみによって引き出されるこのなんとも形容しがたい感情は、前回取り上げたわら人形にも通じるものだ。ここでも人形が、われわれと"誰か"を隔てる/結ぶメディアとしての機能を果たす。
この時生じる、"彼ら"の内奥や背後に、はっきりではないけれど"誰か"が透けて見えたり見えなかったりする気がしてくる絶妙な感じ。これを人形における"透け感"とわたしは呼びたい。
この"透け感"は、店頭で雨ざらしになっている置物だろうと、国宝として大事に保管されている仏像だろうと、果てはゆるキャラのような着ぐるみだろうと、あらゆる"人形"につきまとう。実は人形文化について考える上で重要なキーワードのひとつだ。
そして、こうした人形の性質を近年もっとも有効に利用していたコンテンツのひとつが、Eテレの番組『ねほりんぱほりん』である。
そこで今回は、『ねほりんぱほりん』における人形の機能について考え、どのような"透け感"を見出すことができるのかを明らかにしてみたい。
『ねほりんぱほりん』は、2015年に特番、2016年の10月から17年3月までシーズン1、また17年10月から18年3月までシーズン2が水曜日の23時に放送された。
番組では司会の山里亮太とYOUがモグラの人形に、ゲストがブタの人形に扮し、トークを行なっていく。
特徴的なのは、様々な事情でテレビに顔を出すことのできない元薬物中毒者や痴漢えん罪経験者、ナンパ教室に通う男などセンセーショナルな肩書を持つゲストが次々やって来る点。
そしてどんな内容が取り上げられた回であれ、最後には「ニンゲンっておもしろい」というテロップが出てきて、番組は終了する。
すると見た目はかわいらしい人形劇でありながら、そこで繰り広げられるトーク内容は過激というギャップが受け、SNSでも拡散、20、30代の視聴者からも支持を得た。
では、ここから『ねほりんぱほりん』における人形の機能を考えていきたい。
まず番組を見て気付くのは、かわいらしいブタの人形がゲストの匿名性を担保するためのカムフラージュとして機能しているということだ。