石破茂氏は「憲法学通説」を絶対視する必要などまったくない

改憲問題から見えた安倍首相との違い
篠田 英朗 プロフィール

素直な憲法の読み方

「戦力」も「交戦権」も、素人が見れば、自衛隊を否定しているように見えるものかもしれない。

しかし、日本国憲法の趣旨を、その前提となっている国際法秩序の背景をふまえて、そのように素直に、読むならば、自衛権行使の手段の保持を禁止しているものだとは読めない。

ダグラス・マッカーサーは、宮沢俊義の憲法案を見て驚愕し、GHQで憲法草案を作成する決断をした際、有名な「マッカーサー・ノート」を執筆した。そこでは確かに自衛権の否定が示唆されている。

しかしGHQ内部では、自衛権の否定はありえないという意見が大勢を占め、マッカーサーも納得した。それで成立したのが、日本国憲法の草案である。

日本国憲法は日本が国際法秩序を遵守し、推進する国家に生まれ変わるために作られたものなのだ。そのことを思い出せば、おのずと憲法学通説とは異なる9条解釈の妥当性が見えてくる。

マッカーサーは次のように言っていた。

「第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげていない。……第九条は、ただまったく日本の侵略行為の除去だけを目指している。私は、憲法採択の際、そのことを言明した」(Douglas MacArthur, General of the Army [New York: McGrow-Hill Book Company, 1964], p. 304.)

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国会で憲法改正(日本国憲法制定)を審議した「憲法改正小委員会」の委員長であった芦田均は、次のように書いていた。

「第九条の規定が戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であつて、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争といふことになる。従って自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。又侵略に対して制裁を加へる場合の戦争も、この条文の適用以外である。

これ等の場合には戦争そのものが国際法の上から適法と認められているのであつて、一九二八年の不戦条約や国際連合憲章に於ても明白にこのことを規定しているのである」(芦田均『新憲法解釈』[ダイヤモンド社、1946年]、36頁。)

 

日本の憲法学は、憲法草案の起点であるマッカーサーを否定してきた。自衛権を擁護するマッカーサーは冷戦後に豹変したに過ぎない、といった物語を流布してきた。それによって憲法学通説の権威を広めた。

日本の憲法学は、国会における憲法改正の責任者であった芦田均を否定し、自衛権行使の手段を持つのは合憲だとする芦田は、姑息な曲解で憲法を捻じ曲げた人物にすぎないといった物語を流布してきた。それによって憲法学通説の権威を広めた。

こうしたメンタリティがあるため、内閣法制局長官に国際法を専門にする者がつくと、「クーデターだ」などと憲法学者が騒ぎだす事態が起こるのではないか。

石破茂氏は、9条2項の消去という措置によって、戦後日本の憲法学の遺産を清算しようとしている。不毛なイデオロギー闘争の場であった9条2項を削除したいという考えそれ自体は、よくわかる。

だが本来であれば、憲法学通説の見解を絶対視して、9条2項を削除することに固執する必要はないのではないか。むしろ問われるべきなのは、憲法学通説の妥当性なのではないか。