石破茂氏は「憲法学通説」を絶対視する必要などまったくない

改憲問題から見えた安倍首相との違い
篠田 英朗 プロフィール

国際主義の憲法を取り戻す

憲法学の通説は、東大法学部憲法学講座教授陣の圧倒的な影響力の下で形成されてきた。憲法学のような分野では、東大法学部教授の権威が強く、他の国立大学教員の人事にまで甚大な影響力を持っている。

もっともさらに日本の憲法学に特徴的なのは、東大法学部と京都大学法学部との間に、かなり深い歴史的な伝統の相違があることだ。

伝統の違いは、戦前にまでさかのぼることができるが、日本国憲法制定時にも深い確執があった。

1945年の終戦直後に、日本政府内で憲法改正作業にあたり始めたのは、東久邇宮内閣の無任所大臣の近衛文麿であった。近衛は、佐々木惣一・元京都帝国大学教授とともに、内大臣府御用掛として、作業にあたった。しかし近衛は戦争犯罪人に指定され、近衛を中心にした憲法改正作業も立ち消えになる。

近衛らをけん制するように始まったのが、幣原喜重郎内閣の松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)であった。その松本委員会の中心人物であり、委員会のために新憲法の草案を起草したのは、宮沢俊義・東京帝国大学法学部憲法第一講座教授であった。

マッカーサーは、この宮沢起草の憲法案が、あまりに大日本帝国憲法に類似した保守的なものであることに衝撃を受けた。そこでGHQ自らが新憲法草案を作成することを決断した。

宮沢は、極めて逆説的な意味でのみ、新憲法の産みの親であった。それにしても戦後日本の憲法学の礎となった宮沢俊義・東大法学部教授とは、どんな人物か。

宮沢の師である美濃部達吉が1935年「天皇機関説事件」で迫害されている時期、宮沢は沈黙していた。それどころか、時局迎合的な言説を繰り返していた。

宮沢は、戦後の平和主義のイメージとは全く逆に、「実際に確立することのできる平和は、すべて……武装せられた平和」である、などと述べていた。

宮沢は、1941年12月8日の日米開戦を、「最近日本でこの日くらい全国民を緊張させ、感激させ、そしてまた歓喜させた日はなかろう」という気持ちで迎えた。「とうとうやりましたな、……来るべきものがつひに来たといふ感じが梅雨明けのやうな明朗さをもたらした……。この瞬間、全国の日本人といふ日本人はその体内に同じ日本人の血が強く脈打つていることを改めてはつきりと意識したに相違ない。

……それから息を継ぐひまもなく、相次ぐ戦勝の知らせである。……気の小さい者にはあまりにも強すぎる喜びの種であった」などと描写していた(篠田英朗『ほんとうの憲法』第3章における引用群を参照)。

 

同じ東大法学部においても、国際法学者の横田喜三郎は、満州事変は侵略行為だと述べる気骨を見せて、軍部からの迫害にあっていた。戦後、横田は憲法を擁護し続けた。ただし同時に、日米安保条約の合憲性も必要性も擁護したため、憲法学者らとは袂を分かつようになった。

宮沢は、自らが書いた憲法案がGHQによって否定されると、いち早く態度を変えた。

宮沢は、新憲法案が形式的には政府発案の改正案として公開されると、すぐさま「八月革命」論文を公刊し、ポツダム宣言が受諾された瞬間に国民が主権者となる革命が起こっていたのだ、とする奇妙な学説を主張した。

そして新憲法制定後は、自らが最高の憲法の解説者であるかのように振る舞うようになり、後に江藤淳から「転向者」と呼ばれるようになった。

そもそも宮沢の「八月革命」説自体が、カール・シュミットの主権論の拙速な焼き直しに過ぎないものであった。

しかし「八月革命」という、学問的には陳腐と言わざるを得ない奇妙なアイディアが、驚くべきことに戦後日本の憲法学の通説として確立された。

京大法学部教授陣からの一貫した批判にもかかわらず、宮沢の弟子たちによって、確立された。

そして英米思想に依拠した日本国憲法を、ドイツ人の概念構成で読み解くという独特の憲法解釈の歴史が固まっていったのである。