「アジア人によるハリウッド映画」メガヒットにみるアメリカ社会

『クレイジー・リッチ!』と人種の表象
吉原 真里 プロフィール

マイノリティであるということは、差別的待遇を受けていたり、社会的弱者であったりするだけではない。それは、自分が生きる文化において自分の属性が表象されていない、つまり、「自分のような人間」の姿ーー少なくとも、「人種という属性を自分と共有している人間」の姿ーーを、テレビや映画や本や雑誌で日常的に見ることがない、ということでもある。それが当たり前のこととして世の中が動いている、ということでもある。

そうしたなかで、「自分のような人間の姿が大画面にある」「自分のような人間の物語が大きな舞台で語られている」ということが、アジア系アメリカ人たちの意識や自負にどれだけ大きな意味を持っているかということを、Crazy Rich Asiansへの大人気は語っている。

日本版タイトルから「アジアン」が消えた意味

そしてまた、マイノリティであるということは、そのマイノリティとしての属性を扱った、大舞台で公開されるごく一握りの作品に、過大な期待と要求が寄せられる、ということでもある。

小説『シンパサイザー』でピュリッツァー賞を受賞したベトナム系アメリカ人作家ヴィエト・タン・ウェンがニューヨーク・タイムズ紙で述べているように、「自分たちの物語が世の中で稀少な状況」で生きるマイノリティにとっては、Crazy Rich Asiansのような作品は、単に凡庸で陳腐な映画であることを許されない。

ヴィエト・タン・ウェン『シンパサイザー』

白人が作った白人についての映画には、傑作もあれば駄作もあるのが当然と誰もが考えていて、駄作は単なる駄作として扱われ、白人の監督や役者や脚本の将来に責任を負うことはない。しかし、メジャーな舞台で流通するアジア系アメリカ人の作品は、「アジア系アメリカ人」の現在と未来をまさに背負わされているのだ。

アメリカにおいて、ありとあらゆる「アジア人」についての映画が、傑作も駄作も含めふんだんに流通していれば、この映画は、シンガポールに住む超リッチな華人たちのクレージーぶりと、ハンサムな男の意地悪な母親と賢く可愛い彼女の対決を描いた、愉快でちょっとお涙ものの、ひとつのロマンチック・コメディ、で済むものである。それ以上でも以下でもない。アジア人云々についてことさら騒いだり論じたりする必要もない。

 

日本では、おそらくこの映画はそうした単なるロマンチック・コメディとして捉えられるだろうと私は想像する。少なくとも、普段からテレビであれ映画であれ、画面をみればそこに「自分のような人間」の姿があることが当たり前と思って生きている多くの視聴者には、そのように捉えられるだろう。日本公開にあたって映画のタイトルから「アジアン」が消えていることの意味はそこにあると思う。

「アジアン」をタイトルから外してこの映画を楽しめる、というのは、マジョリティである「アジア人」の特権であり、日本の社会文化状況は、その点においてはきわめて恵まれたものなのだ。そのことが象徴する自らの贅沢な立場を考えながらこの映画を観ると、楽しみも理解もいっそう深まると思う。そうした意味で、「アジアン」の消えた『クレイジー・リッチ!』は、日本の観客にアジア系アメリカ人の歴史を教えてくれるのかもしれない。