「アジア人によるハリウッド映画」メガヒットにみるアメリカ社会

『クレイジー・リッチ!』と人種の表象
吉原 真里 プロフィール

アジア人はこう描かれてきた

中国から多数の労働者たちが海を渡って北米に移住した19世紀半ば以来、中国人そしてアジア人一般をターゲットとした移民排斥法や、市民生活への同化や資本の蓄積を阻むさまざまな法的障壁や社会的差別、第二次大戦中の日系人の強制収容などと闘いながら、徐々にアメリカを自らの故郷としていった、あるいはそうせざるを得なかったアジア系の人々は、やがて、時には誇りをもって、時には仕方なく、「アジア系アメリカ人」となっていった。

1960年代後半になると、アフリカ系アメリカ人の公民権運動に触発され、脱植民地主義運動やベトナム反戦運動などと連帯しながら、アジアからの移民やアジア系アメリカ人の法的・経済的・社会的権利と平等を求めるアジア系アメリカ運動が台頭した。

そのなかで、彼らが声高に要求してきたことのひとつが、カルチャーにおける表象の変革である。アメリカの主要メディアにごく稀に登場するアジア人といえば、辮髪に出っ歯の苦力(クーリー)、吊り目に丸眼鏡をした凶暴な日本兵士、チャイナタウンの娼婦、着物姿で男性に仕えるゲイシャなどといったステレオタイプしかなかったのは、そう昔のことではない。

第二次大戦時のアメリカのポスターに描かれた日本人。こうした表象の影響が戦後も残っていた〔PHOTO〕Gettyimages

より現実的で多面的なアジア人の表象を求めて、アーティストや活動家や研究者たちが、メディア界の内外で活動を続けてきた。そうした努力と社会の流れによって、数十年前と比べると、映画やテレビの画面にアジア系の人物が登場する頻度も、画一的なステレオタイプにはまらない多面的な役も、確実に増えてきている。

それでも、アジアを舞台にしたアメリカのメジャー映画は『ラスト・サムライ』や『ロスト・イン・トランスレーション』など、白人アメリカ人を主人公として、白人の視点から語られる作品だったり、物語の舞台がアメリカの場合は、アジア系アメリカ人はあくまでも脇役だったりすることが多い。

白人がアジア人の役を演じる「イエローフェイス」も、未だに時おり存在する。アジア系アメリカ人の歴史や生活を題材にした、アジア系アメリカ人による秀作も数多く存在するものの、いわゆるエスニック市場を超えて幅広いアメリカの視聴者に届くことはなかなかない。

そうしたなかで、「アジアを舞台にした、アジア人についての物語を、アジア人が演じる、アジア人が作った映画」にかけるアジア系アメリカ人たちの思いは、日本の一般視聴者にはなかなかピンとこないくらい強いのだ。

 

人種というカテゴリーの強さ

アメリカ文化におけるアジアの表象やアジア系アメリカ研究を専門の一部としてきた私にとってさえ、この映画にかけられた期待や、公開後の人気ぶりは、正直言って予想を上回るものだった。

脚本や即興演技、カメラワークや音楽など、具体的な点に注意してみれば、さまざまな意匠が凝らされていて、エンターテイメントとしては大いに楽しめる映画である。しかし、恋愛物語のプロットとしてはむしろ定番であるし、大富豪たちの生活に焦点を当てることで可能な社会風刺的側面も薄い。

個人的な好みとしては、レイチェルにはもう少し違ったタイプの女性性を象徴するヒロインであってほしかったし、ニックの役作りもいまひとつ浅い気がする。物語の焦点となるレイチェルとエレノアの対立も、「アメリカ=個人主義、アジア=家族主義」といった単純な二項対立的構図を上塗りしている。

また、すでに多くの批判が出ているように、シンガポールを舞台としていながら、シンガポールの人口の相当数を占めるマレー系やインド系の人々は物語に存在せず、かつてのアメリカ映画で黒人の役といえばメイドと決まっていたのと同じように、門番や使用人として華人の主要登場人物を引き立てているだけである。

そしてなにより、アジア系アメリカ人の視聴者たちが「自分のような人間の姿を画面に見る」「自分のような人間の物語が大きな舞台で語られている」と感じるとはいっても、そうした視聴者たちのほとんどは、この物語に出てくるようなcrazy rich Asiansではないはずだし、共感の対象として描かれている主人公のレイチェルにしても、生い立ちや社会的立場において必ずしも多くの視聴者が同一感を感じる人物にはなっていない。

そうした点で、この映画は、社会への理解を深めたり、鋭い政治的メッセージを発信したり、あるいは深い共感を呼んだりするような類の作品とはあまり言えない。

それでありながら、この作品がここまでアジア系アメリカ人たちの心に響いているということに、アメリカにおける人種の表象というものの意味の重さが感じられる。

社会階層、国籍、民族、言語、性、宗教、地域などの境界線によって複雑に分かれている「アジア系アメリカ人」が、「アジア人」であるというひとつの共通項に結ばれて、この一本の映画に幅広く共鳴するほど、現代のアメリカ社会・文化において、そしてそこで生きる人々にとって、人種というカテゴリーが大きな意味を持っている、ということの表れであろう。