「日本スゴイ」で失敗し、日中戦争で大復活した新潮社雑誌の興亡史

『新潮45』が歴史を繰り返さぬように
辻田 真佐憲 プロフィール

経営の危機も……日中戦争で大復活

だが、佐藤社長に撤退の二文字はなかった。新潮社はすでに婦人雑誌『婦人の国』で失敗していた。この上、大衆雑誌でも失敗するわけにはいなかった。

とはいえ累積する赤字は、同社の経営を圧迫しはじめた。1937年の上半期には、社屋を抵当にいれなければならないほどにまで膨れ上がってしまった。それでも佐藤社長は『日の出』を諦めなかった。

この危機を救ったのが戦争だった。1937年7月、日中戦争(支那事変)が勃発するや、『日の出』は「事変特輯」「事変大特輯」などを繰り返して大復活、ぐんぐんと売れ行きを伸ばして、ついに黒字転換を遂げたのである。

この時期の『日の出』を読み返すと、月が進むごとに、事変特集のページも多くなっていくことがわかる。

「支那軍は強いか弱いか」(山中峯太郎)、「北支空爆従軍記」(熊川良太郎)、「戦史の華・飯田部隊長」(八波忠一)、「松井石根大将物語」(山部憲太郎)、さらには「『日英戦はゞ』座談会」まで――。

 

1937年12月号の「保定陥落大座談会」(矢崎部隊長司会、将兵百二十名出席)などは、「馬乗りになつてアツサリ敵の首を斬る」「敵を組伏せて猛烈な鉄拳の雨」「片端から銃剣で敵兵をいも刺し」などなんとも勇ましい。こういう特集が読者に受けていたわけだ。

創作のコーナーもその影響をまぬかれず、「軍事小説」「事変小説」「事変浪曲」などによって徐々に埋められていった。

佐藤社長もみずから筆を執った。1937年10月号の「事変に処する国民の覚悟」にいわく。

「事変起つて以来、鬼畜にもひとしい行為を邦人に加へた惨話を屡々聞かされますが、大陸に国を成し、長い間、異民族との残忍きはまる戦ひに慣れたものは、虐殺・陵辱を日常茶飯事と思ふのでありますが、(これは支那ばかりでなく、尼港の惨劇をやつたロシヤも同じことです。)一国一民族なるがために、敵味方の間にも礼儀あり、体面あり、慈愛ある武士道に教養されて来た日本人の戦ひは、全く世界に類のないものであります」

あるいは、同年12月号の「我子の戦死を嘆く母親に」にいわく。

「国のため喜んで死ぬといふことは、口では簡単に言はれますが、容易には実行のできるものではありません。ところが日本人は、いざとなれば喜んで死地に就きます」

「伊勢大廟の前に、何の理窟もなく、たゞ感激の涙にくれた祖先のこの宗教的情熱のなかに、日本人のみが有つ『忠君』、『愛国』の心が育まれて来て、死んでも生きてゐたといふ歩哨のやうな、奇蹟ともいふべき多くの戦場美談となり、最後といふ時に 陛下の万歳を唱へまつる声が、無意識に迸り出るのであります」

『日の出』の快進撃は、1938年以降も続いた。「昭和十四 [1939年]年の新年号は全社員に初めて大入袋を出したほどの圧倒的な売れ方であった」(『新潮社七十年』)。

このような戦争特集により、『日の出』は一転して、返品皆無という優良雑誌に生まれ変わったのだった。