西郷は「二面性」が魅力だ
大河ドラマ『西郷どん』では大政が奉還され、竜馬が殺され、戊辰戦争が始まった。
この時期の陰謀家としての西郷隆盛が描かれて、すごくいい。
西郷隆盛の深さは、とても“純”な部分を持っていながら、旧政府を転覆させる大陰謀をやりきった二面性にある。この慶応年間の陰謀家の凄みと、明治になってからの茫洋とした雰囲気の落差が、西郷の不思議であり魅力であり、そして不可解さにつながっている。
西郷隆盛ドラマのむずかしさは、明治以降の西郷の描きようにあるとおもう。
いくつかの評伝や小説を読んでいると、けっきょく、この人は当人に直接会っていないと、その実像はつかめないのではないか、とおもわざるを得ない。ついぞ写真を一枚も遺させなかったという逸話からも、彼の「会ってみないとわからない」という力の強さを感じる。それが特に明治以降に強くなっていく。ドラマがむずかしくなっていくポイントである。

晩年の西郷の気配からは(西南戦争を起こす前の西郷ということだが)、死に損ねた、という気分だけが伝わってくる。
このころの西郷隆盛の生き方を人に共感させるように描くのはなかなかむずかしい。彼らの挙兵は、見方にもよるのだろうが、武士軍団の壮大な自殺にしか見えない。
人生の前半から突き放して西郷を描ければ、最後も淡々と描写すればすむだろうが、この人の人生に沿って歩くと、そういうわけにはいかない。どうしても惹きつけられる幕末時代と、その心情がわかりにくくなる明治以降という「分離した物語」にならざるをえない。
西郷どんにとって、驚くほどの「別の時代」だったのだろう。自分で社会そのものを変えておきながら、その変わりように驚くという不思議さは、なかなか映像化しにくいものである。
この人の半生はずっと「公的」な存在だったのだが、誰にとっての公的な存在であったのか、途中からわからなくなっていく。
ただ、西郷の最後の言葉として伝えられる「晋どん、もうここらでよか」という言葉は、戦局における時機だけではなく、人生全般においての死に処を示唆しているようで、自分も歳を取ってくると、妙に胸に迫ってくる。どこで、どう終わるのかいいのか、現場にいるかぎりはなかなか見つからない、ということを示しているようであり、人生そのものが苦しかったという吐露にも聞こえてくる。
これほどの人物が、もうこのへんでいい、という言葉を最後に死んだということをおもうと、人生のいろんなことにおもいをはせてしまう。