スポーツ中継の修羅場に登場した医師がパニックに陥った理由

覆面ドクターのないしょ話 第33回
佐々木 次郎 プロフィール

「ひっこめ! やぶ医者!」殺気立つ会場

また別の週末、私は家電量販店の中をボケッと歩いていた。

たくさん並んだテレビの前に人だかりができている。最新型のテレビなのだろうか? 最近のテレビは画質がいいよねぇ、でも女優さんは小じわがくっきり映ってしまうから気の毒だなぁ、などと独り言を言いながら、私はその場を通り過ぎようとした。

 

そうだ! 思い出した。これからボクシングの世界タイトルマッチがあるのだ。日本人と中南米のボクサーとの対決だった。名前は忘れてしまった。仮に本田vs.ゴンザレスとしよう。ほどなくして試合開始のゴングが鳴った。

ゴンザレスは強かった。ゴンザレスのリーチは長く、本田がゴンザレスの懐に入るのは難しそうだった。本田はボコボコに打たれていたものの、何とか猛攻をしのいで第4ラウンドまで終わった。

そして第5ラウンド。今度は本田が攻勢に出た。ゴンザレスに連打を浴びせ、ダウン寸前にまで追い込んだ。ところが次の瞬間、ゴンザレスのストレートが本田の顔面をとらえ、彼の左上瞼が切れた。血液が目に流れ込み、本田は血液をグラブで拭いながら戦っていた。その直後、レフェリーがいったん試合を止めた。ドクター・チェックである。

読者の皆様、実はほとんどの場合、ボクシングのリングサイドにいる医者もアルバイトなのである。だが、激しいスポーツだから、医者ものんびりとはしていられない。

ボクシングで、ボクサーがダウンすることはよくある。意識を失うこともある。しかも顔を殴られて意識を失うのだから、当然脳の損傷も考慮しなければならない。私にとって、頭部外傷は診たくない外傷の一つである。だから、小遣い稼ぎになるからといって、おいそれとバイトに応じるわけにはいかない。やはりこのバイトには脳外科医がふさわしい。

呼び出された医者がリングサイドに上がってきた。

「ずいぶん童顔のドクターだなぁ」

と私は思った。手際は悪くないのだが、何か不穏な様子だ。医者は本田の傷を見ながら、やたらおどおどと周囲の観客を気にしていた。観客が彼に向かって何か怒鳴っている。なぜ彼に罵声を浴びせるのか?

「あれっ? この医者……佐久間じゃないか?」

目を凝らすと、間違いなく佐久間だ。彼も大学の同級生で、卒業後、脳外科医になり、彼と私は病棟がいっしょだったことがある。

私がテレビの画面越しの久しぶりの邂逅に驚いていると、家電量販店でテレビを囲んでいた人たちが騒ぎ始めた。

「おいおい、ドクターストップじゃないよな?」
「まだ5ラウンド目だぜ」
「ここで終わったら詐欺だろ」

そうか、それでみんなエキサイトしていたのか。せっかく12ラウンドあるのだ。最後まで戦って、試合を見せてほしいというのが人情だ。

ドクター・チェックの結果、問題なしと判断されて試合再開。出血が止まり、本田のストレートもフックも調子が出てきた。いいぞ、ダウンを奪えるか! 

と、そこへまたしてもゴンザレスのストレートが本田の左の眉毛をかすめた。再び流血。顔は血流が良いので、小さな傷でもかなり出血する。

死亡事故もありうるボクシング。試合を止めるのも医者の仕事だが……(photo by gettyimages)

再びドクター・チェックになった。セコンドが傷口にワセリンを塗っている。さらに佐久間君が何度も傷を圧迫して止血を試みているが、困難な様子だった。童顔の彼が困った顔でレフェリーをチラチラ見ている。

「止めるべきか否か、それが問題だ」

彼は悩んだ(はずだ)。会場全体に殺気がみなぎっていた。彼の判断如何では、観客すべてが襲いかかってくるような雰囲気だった。家電量販店の客たちも罵詈雑言を佐久間君に浴びせた。

「続けろ!」
「止めるんじゃねぇぞ!」
「引っ込め! ヤブ医者!」

佐久間君は、リングサイドでも、この家電量販店でもサンドバッグのように集中砲火を浴びていた。佐久間君が私に問いかけているような気がした。

「次郎、俺、お陀仏かも」
「佐久間、逃げろ!」

だが、その直後、彼は意を決し、首を大きく横に振った。ついにドクターストップ! レフェリーがゴンザレスの手を高々と挙げ、試合はたった第5ラウンドで終了。会場はもちろん、家電量販店でも大騒ぎだった。

「金返せ!」
「ざけんなよ、こいつ許さねぇぞ!」

ボクサーの拳によってではなく、佐久間君の決断が最終的に勝敗を決した。彼は、多くの観客と家電量販店の客を敵に回してでも、ボクサーの体を守らねばならなかった。

彼は騒然とする会場の中、もみくちゃにされながら医務室へと消えて行った。

「佐久間、バイトお疲れさま」