画/おおさわゆう

スポーツ中継の修羅場に登場した医師がパニックに陥った理由

覆面ドクターのないしょ話 第33回
豪速球のデッドボール、外野手がフェンスに激突、ベース上での接触プレー、1チームあたり年間143試合行われるプロ野球では、ケガはつきものともいえる。これが、ボクシングともなれば、グラブをはめているとはいえ、拳で殴り合うのだから、一切ケガがないほうが珍しいだろう。それゆえ、試合の現場には必ず、ドクターが待機している。
場合によっては修羅場に登場するドクター、テレビで観戦していた次郎先生が心底同情してしまった場面があるという。

5万人の大観衆におじけずいてしまい……

長年、医者をやっていると、同業者の友人がテレビに出ているのを観ることがある。

『きょうの健康』や『ガッテン!』などの健康番組が多い。酒好きで豪快な質の友人も、NHKに出演すると、しおらしく真面目な医師を装っている。私もテレビに出たことがある。ただの通行人だったが……。

健康番組ならよいのだが、ときおりテレビ番組の修羅場のど真ん中に身を置いてしまった友人を観ることがある。

ずいぶん前の話だが、あるとき、私は巨人戦のテレビ中継を見ていた。球場は東京ドーム。ランナー二塁で、バッターがセンター前にヒットを打った。ランナーは快速をとばし、三塁を蹴ってホームに突っ込んだ。センターの外野手からはレーザー・ビームのような好返球。ランナーとキャッチャーが激突。キャッチャーがその衝撃で意識を失って倒れた。

「あぁ~っ!」

5万人の観衆が悲鳴をあげた。その後、医務室から医者が連れて来られた。

だが、何やら様子が変だ。球場職員が医者の白衣の袖を何度も引っ張っている。「早く! 早く!」と医者は急かされているようだった。

ところがその医者は、まるで行きたくない方向へリードを引っ張られて嫌がっている柴犬のように抵抗していた。医者は自分を指差しながら、何か言っている。声は聞こえなかったが、その口の形から、次のように言っているようだった。

「俺? 俺が行くの? マジ?」

読者の皆様はご存じないと思いますが、実は球場の医務室にいる医者はアルバイトなのです。

考えてみれば当然だ。試合時間はわずか3時間程度しかないのだから、常勤の医者を置く必要はない。

だが、球場内は階段が多く、観客が転んでケガをするかもしれないし、ファウル・ボールが飛んできて痛い目に遭うかもしれない。なにしろ観客は5万人もいるのだ。それらのことを想定すると、医務室には営業時間内に臨時の医者を待機させる必要がある。

この私も友人から、この種のアルバイトを頼まれたことがある。

「球場の医務室で何すればいいの?」
「特にやることないんだよ」

結局、私はバイトを断ったのだが、友人によれば、球場の医務室のバイトはちっとも忙しくないらしい。医務室に来る患者さんは軽症が多く、たいていは医務室内に腰掛けて、試合を見ることができるというのだ。もし万が一、重傷の患者さんが来ても、診察した上で、近隣の総合病院へ行ってもらうことになる。医務室には応急処置ができる程度の設備しかないからだ。

話を巨人戦に戻そう。当日のこの医者も、アルバイトを頼んだ友人の言葉を信じて、医務室でのんびり過ごしていたのだろう。

「先生、ケガ人です」

と医務室に電話が入った。

「どうせ大したケガじゃないんだろ?」

やおら立ち上がったものの、事態を把握していない彼はまだ余裕のよっちゃんを気取っていた。そして医務室から殿様気分でグラウンドを眺め、初めて驚愕の事実に直面した。なんと巨人の選手が倒れている。その周りにはチームメイトやコーチが数名集まっている。彼はそこからズーム・アウトして球場全体を見渡した。その周りには……5万人! 雲霞のような5万人の大観衆がじっと固唾を呑んで事態の推移を見守っていた!

万単位の人の注目を浴びるなんて、ごく一部の選ばれた人しか経験できないことですからねえ(photo by gettyimages)

「まさか俺、あそこに行くの? ムリムリ!」

彼はおじけずいて、この期に及んで後ずさりした。

「どうしよう、どうしよう」

医務室を行ったり来たり。もたもたしていたから、球場職員が迎えに来てしまい、嫌がる柴犬のような彼をグラウンドに無理やり引っ張って行ったというわけである。

グラウンド上での彼の診察は明らかに手際が悪かった。

「まず脈は……あるよなぁ、生きてるんだから」
「目を開けて、閉じて……開けて、閉じて」
「この人差し指を見て、回って回って……」

球場内がざわつき始めていた。選手の安否が知りたくて、数万人が今か今かと待っているのだ。テレビでは実況のアナウンサーと解説者もいらだちを隠せなかった。医者が手間取っている間、テレビ画面には、ランナーとキャッチャーが交錯する映像が何度も流された。

意識を失っている以上、こんなときは何はともあれ、すぐに救急車を呼んで病院へ搬送したほうがいい。今、この場で正しく診断する必要はないのだ。とにかく搬送! そして彼も大群衆の前から一刻も早く消えることが重要だ。

そのとき、ふと気づいた。この医者、どこかで見た覚えがある。

「あれっ? 伊藤?」

大学の同級生の伊藤だった。彼は内科医だったはずだ。たぶん気が動顛して、慌ててしまったのだろう。診察から約20分後、担架に乗せられた選手といっしょに、伊藤君は滝のように流れる汗をふきふき球場を後にした。
翌日、大学に戻ると、医局の先輩から、

「おまえは今まで何を勉強してきたんだっ!」

と大目玉を食らったという。

だが、私は彼に同情する。5万人の観衆が見ている前で診察するなんて、医者人生の中でもめったにあるものではない。かなりの緊張を強いられたはずだ。学会の大きな会場で発表するとしても、聴衆はせいぜい1000人。その50倍の観衆の前でてきぱきと診察をするなんて、私にも無理だ。伊藤君の腕が悪かったのではない。魔物の住む球場の雰囲気に彼は呑まれたのだ。

「伊藤、バイトお疲れさま」