巨大潜水空母をもってパナマ運河を攻撃せよ!日本海軍極秘作戦の真実

米軍が驚愕した潜水艦上攻撃機「晴嵐」
神立 尚紀 プロフィール

日の丸は、米軍機の星マークに描き替えられた!

ところがそんなある日、第一潜水隊に攻撃目標の変更が伝えられる。作戦計画の説明を受けた軍令部次長・大西瀧治郎中将の鶴の一声でパナマ運河攻撃作戦は中止されることになり、目前に迫った本土決戦に備えて、来攻する敵兵力に少しでも打撃を与えるべく、太平洋・グアム島とパラオ島の中間に位置し、米海軍部隊が集結するウルシー泊地(現・ミクロネシア連邦ヤップ州)に在泊する敵機動部隊を攻撃することになったのである。

 

パナマ運河攻撃ひと筋に訓練を重ねてきた第一潜水隊にとって残念な作戦変更だったが、すでに5月、ドイツが降伏し、米大西洋艦隊が太平洋に出てきているいまとなっては、仮にパナマ運河を爆砕しても実効性はうすく、やむを得ない決定だった。

伊十三潜、伊十四潜の2隻は「晴嵐」を降ろし、代わりに艦上偵察機「彩雲」を日本海軍の南方の拠点、トラック島まで輸送し、伊四百潜、伊四百一潜の2隻は、その偵察機の報告に基づいて、おのおの3機の「晴嵐」をもってウルシーを攻撃することとされた。

第一潜水隊司令・有泉龍之介大佐は、伊四百一潜に乗艦し、4隻を併せて指揮する。淺村さんは、伊四百一潜、伊四百潜の「晴嵐」各3機、計6機の指揮官である。伊四百一潜艦長は、南部是清少佐だった。

有泉大佐は、昭和19年、伊号第八潜水艦長として、インド洋の通商破壊戦で多くの敵輸送船を撃沈し、勇名を馳せた人。南部艦長は、開戦早々の昭和17年2月、伊号第十七潜水艦先任将校として、米本土西海岸まで進出し、サンタバーバラ海峡の油田地帯を、道路を走る車のヘッドライトが見えるほどの至近距離から砲撃した経歴を持っている。いずれも大作戦にふさわしい、潜水艦の戦いをよく知る指揮官だった。

「晴嵐」育ての親のテストパイロット・船田少佐も、第一潜水隊の飛行長として、淺村さんと同じ伊四百一潜に乗組んでいた。

伊四百潜、伊四百一潜は7月13日、七尾湾から舞鶴軍港へ向かい、ここで攻撃準備を完了したのち、青森県大湊(現・むつ市)に回航した。舞鶴では出港を前に、伊四百一潜艦上で出陣式があり、直属の第六艦隊(潜水艦隊)司令長官・醍醐忠重中将より、淺村さんたち6機12名の搭乗員に白鞘の短刀が授与され、この攻撃隊を「神龍特別攻撃隊」と命名することが伝えられた。

出陣式の終わりに、淺村さんは、

「ここで別れて再び顔を見ることはないが、お互い自愛自重して任務を達成しよう」

と、部下の搭乗員たちに訓示をした。

攻撃にあたっては「晴嵐」にはフロートを装着せず、800キロ爆弾を積んで出撃することになっていた。そして攻撃終了後は、伊四百潜、伊四百一潜ともシンガポールに回航し、内地から運ばれた新手の「晴嵐」を搭載、訓練して反復攻撃をかける計画になっていた。

「目標変更については、特に感慨はありません。体当たり攻撃は、搭乗員として暗黙の、というより当然の了解事項です。

もちろん、死ぬのは怖いですよ。でも、それよりも、果たして無事目標にたどり着いて任務を果たせるのかのほうがずっと心配でした。1ヵ月も2ヵ月も潜航したまま飛行作業もせずに、ある日突然、敵地の近くで急速浮上して、暁闇のなか、カタパルトで打ち出されるわけですから……。

しかし、いま思えば、当時の私は23歳の独身者。妻子ある搭乗員はみな、そんなことはおくびにも出しませんでしたが、苦悩はあったでしょう。部下に対して思いやりがなかった、人間として未熟だったと反省しています」

出撃準備の整った伊四百一潜は、7月23日、大湊を出港、一路ウルシーに向かった。僚艦伊四百とは別行動の上、8月14日に会合し、攻撃は8月17日未明と定められた。

出港に先立って、第六艦隊司令部の指示で、「晴嵐」の日の丸が米軍の星のマークに描き替えられ、さらに機体の色も、米軍機同様の銀色に塗り替えられた。戦時国際法に違反し、日本武士道にも悖〈もと〉る行為に、隊員たちにはぬぐいがたい後ろめたさが残った。

「信じがたいことかもしれませんが、これは事実です。やり直しがきかない切羽詰まった状況で、攻撃を成功させるため手段は選べなかったんでしょうが……。命令とはいえ、このことだけは釈然としませんでした」

順調に思えた伊四百一潜の作戦行動だったが、思わぬ齟齬が生じる。連絡ミスから、予定の8月14日に伊四百潜と会合できなかったのである。大湊を出港後に有泉司令が出した針路変更の命令を、伊四百潜では受信していなかったのだ。待てど暮らせど、伊四百潜は会合場所に現れない。

しかも、伊四百一潜には優秀な敵信傍受班が乗組んでいたが、その前日あたりから、日本の降伏を伝える海外電波が頻繁に入ってくるようになった。

「ひと言で言って、アンビリーバブルですよ。わずか3週間前に大湊を出港して、そのちょっと前には舞鶴で艦隊長官や大本営の幕僚の見送りを受けたばかりなわけですから、降伏なんて想像もしていません。悔しいどころの話ではありませんでした」

艦長・南部少佐の手記によれば、1日待って8月15日、日没30分後に浮上したところ、通信長より、無線で傍受した天皇の詔勅が艦長に届けられた。

〈堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ〉……ここまで読んで、南部艦長は、

「これはデマだ! こんな馬鹿なことがあるものか!」と叫んだ。

伊四百一潜はあくまで任務を完遂すべく、ウルシーに針路を向けた。しかし、さまざまな情報から、日本が降伏したことはもはや疑いようのない事実となってきた。ただ、「降伏」ということが、そういう経験もなく、発想そのものを持たない当時の将兵にとっては思考の限界を超えた事態であったのだ。

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