巨大潜水空母をもってパナマ運河を攻撃せよ!日本海軍極秘作戦の真実

米軍が驚愕した潜水艦上攻撃機「晴嵐」
神立 尚紀 プロフィール

遠路インド洋を経て、大西洋側からパナマ運河攻撃

淺村さんは大正11(1922)年、大阪府生まれ。昭和13(1938)年、大阪府立生野中学(現・生野高校)より海軍兵学校(70期)に進み、卒業後は戦艦「陸奥」航海士を経て飛行学生を命ぜられ、水上偵察機の操縦員となった。茨城県の鹿島海軍航空隊で教官配置についたのち、昭和19(1944)年10月、巡洋艦「青葉」飛行長として比島沖海戦に参加したが、「青葉」はルソン島西方で敵潜水艦の魚雷を受け、損傷。台湾・高雄基地に引き揚げた淺村さんに、横須賀海軍航空隊への転勤命令が届いた。

 

「さっそく着任してみると、そこではオレンジ色に塗られた『晴嵐』の試作機――その頃は『M6』と呼ばれていました――が、航空技術廠飛行実験部員(テストパイロット)・船田正少佐の手で飛行実験を繰り返していました。『M6』は、テストが終了次第、『晴嵐』と名付けられ、ただちに開設準備中の第六三一海軍航空隊(六三一空)に配備されることになっていました」

淺村敦大尉。昭和20(1945)年5月、「晴嵐」機上にて

淺村さんは、飛行学生の頃に教えを受けた教官・福永正義少佐から六三一空への誘いを受け、喜んでこれを受けた。福永少佐は水上機の名パイロットとして知られ、六三一空飛行長になることが決まっていた。12月、淺村さんは六三一空の飛行隊長に発令された。

六三一空は、「晴嵐」を装備して、並行して開発、建造中の伊四百型潜水艦の各艦に搭載され、ある重要な極秘任務につくことになっていた。

パナマ運河攻撃である。

「潜水空母」の構想は、開戦直後、山本五十六聯合艦隊司令長官の着想で具体化したもので、その作戦は、遠路インド洋から喜望峰を経由、大西洋側からパナマ運河の閘門〈こうもん〉を航空機によって攻撃、爆砕し、太平洋と大西洋を結ぶ交通を遮断するという壮大な計画だった。

アメリカの工業地帯の多くは東海岸にあるので、船舶、物資を太平洋側に輸送するにはパナマ運河を通らねばならない。この作戦が成功すれば、商船だけでも数百万トンを沈めるに匹敵する効果が期待できる。米大西洋艦隊が出てくるにしても、遠く南米のチリ沖を廻るか、大西洋から喜望峰経由でインド洋を横断してこなくてはならない。そこに日本海軍の潜水艦部隊を配置すれば、米艦隊を一網打尽にすることができる。――そのために、巡航速度で地球を一周半できる長大な航続力(14ノット〔時速約26キロ〕で37500浬〔約69450キロ〕)をもつ超大型潜水艦と、それに搭載される高性能な攻撃機が開発されたのだ。

「晴嵐」は、潜水艦に搭載するため分解、折りたたみができ、着水用のフロートをつけなければ戦闘機並みの高速を誇り、800キロの大型爆弾か魚雷を積むことが可能な新鋭機だった。

潜航中の狭い艦内であらかじめエンジンオイルを暖め、暖機運転をするために液冷エンジンを採用し、地球上どこでも方位に誤差が出ないよう、水上艦艇でさえ全てには装備されていなかったジャイロコンパスを備えるなど、その時点での日本の航空技術の粋が結集されていた。

伊四百一潜の艦橋前部に口を開く飛行機格納筒。ここに「晴嵐」3機を格納した

それら「潜水空母」と「晴嵐」は、完成すれば地球上どこでも攻撃できるだけの威力と可能性を秘めているはずだった。

しかし、伊四百型潜水艦は、当初18隻が建造予定だったのが、資材調達、戦況の推移などから何度も計画が見直され、昭和19年12月30日に伊四百潜が、翌20年1月8日に伊四百一潜がそれぞれ竣工したものの、ときすでに遅く、戦局は日本にとって決定的に不利になっていた。

「それでも、われわれはパナマ運河攻撃のため、猛訓練を続けました。20年4月、私は六三一空飛行隊長の職はそのままに伊四百一潜飛行長を兼ねることになり、6月上旬には、敵機の空襲を避けて能登半島の七尾湾で、伊四百潜、伊四百一潜、伊十三潜、伊十四潜の4隻の潜水艦で編成した第一潜水隊と、六三一空の『晴嵐』との総合訓練が開始されました」

総合訓練は、潜水艦が目標に隠密に接近して急速浮上し、折りたたんだ「晴嵐」を展張して連続射出、発進させ、海面に浮かべたパナマ運河閘門の模型を目標に爆撃訓練を行うというものだった。

沖縄失陥直前のこの時期においてなお、パナマ運河攻撃という大作戦の準備が着々と進められていたことは驚くべきことである。

「水平線が視認できないような暗闇のなかでは、上下左右もわからなくなってカタパルト発艦は不可能なので、じっさいの作戦は、残月のある黎明時に発進することになっていました。訓練は、作戦に即して行われましたが、最終的には、『晴嵐』3機を10数分で発進させることができるようになりました。搭乗員も大変でしたが、整備員はもっと大変でした。飛行機の整備に飛行作業後の手入れ、水洗い。寝る暇がないぐらいです。整備員の苦労にはいまも感謝しています。

パナマ運河攻撃は、最初は通常の爆撃の予定でしたが、だんだん体当りする方向になってきましたね。当時の日本の国力を考えれば、やり直しがきかない。海軍では、生還を期さない作戦など戦術ではないと教えられてきましたが、これだけの戦備をととのえて、兵器をつくる人の苦労とか、潜水艦の200名の乗組員とか、その先鋒に立って、輿望を担って乾坤一擲の作戦に出るんですから、爆弾を投下して当たった、当たらなかったという次元の話ではない。閘門に直接ぶつかるのがいちばん確実な方法であったわけです」

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