50年間続いてきたカトリック教会「性的児童虐待」の深い闇

なぜ教会は対応を誤ったのか
森本 あんり プロフィール

3. さらにもう一点、カトリック教会の不思議な論理に触れておきたい。

司教が自分の監督下にある司祭の問題行動を知ったときに取り得る選択肢は、大きく分けて二つある。その司祭を教会から離任させることと、聖職を剥奪することである。

離任なら、後で別の教会へと再任することができるが、聖職剥奪なら、再任は将来にわたってあり得ない。聖職志願者が激減している今日、その判断が前者へと傾くのも無理はないかもしれない。

では、聖職を剥奪された司祭はどうなるのか? 教会法により、聖職者としての任務遂行を「禁止」されるのである。

 

この言葉を特に注意して考えていただきたい。禁止されるということは、その能力は残っている、ということである。能力が消えてなくなっているのなら、禁止するまでもない。逆に言えば、禁じられていても行使はできる、ということである。

仮に、聖職を剥奪された司祭が、禁を破ってミサや洗礼を執行したら、その効力はどうなるのか。不思議なことに、カトリック神学によれば、そのミサや洗礼は、あくまでも有効である。不法ではあるが有効 (illicita sed valida) なのである。

たとえて言えば、医師免許を剥奪された医師でも、その診察や投薬は効くだろう。それと同じことである。

この不思議な論理は、何を意味しているのか。そして、その実際的な帰結は何か。本欄では書き切れないが、わたしはその奥深さに惹かれて最近著(上掲岩波新書『異端の時代』)を執筆した。

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宗教は道徳ではないが……

聖職者たちの性的虐待という問題は、教会に底知れぬほど深い闇があることを示している。

「教会なんて所詮そんなものだ」「どうせ腐敗した人間たちの権力組織にすぎない」という醒めた見方もあろう。実はそれは、世間一般の認識であるだけでなく、キリスト教の本来的な認識でもある。

教会は、まさに罪人の集団である。聖職者であろうと俗人であろうと、そこに根本的な違いはない。そしておそらく、この認識はキリスト教だけでなく、仏教にも通底している。宗教は道徳ではないからである。

だが同時に、罪には被害者の存在という水平次元もある。幽玄な神学の綾(あや)はさて措くとして、今回の問題に対する教会の最優先の務めは、その被害者となった人びとに誠実に向き合うことである。