野間清治の心境に変化をもたらした「長男の誕生」と「激動の時代」

大衆は神である(19)
魚住 昭 プロフィール

社会の不穏な空気

緑会弁論部の発足までの世相をご説明しておきたい。まずは時代背景から──。

日露戦後の時代が、日比谷焼き打ち事件(明治38/1905年)とともに幕を開けたことはすでに述べた。暴動は戒厳令と軍隊の出動で抑え込まれたが、戦後不況や物価の高騰、凶作などが重なって庶民の生活は苦しく、社会全体の不穏な空気は消えなかった。

明治39(1906)年3月と9月には、東京の市街鉄道の電車賃値上げ問題で暴動が起き、群衆が鉄道会社などに投石したり、電車数十台を破壊したりした。

翌明治40年には足尾銅山や別子(べつし)銅山、三菱長崎造船所、三池炭鉱などで暴動やストライキが相次いで起き、足尾・別子銅山では軍隊が出動する騒ぎになった。

さらに、この年11月3日の天長節(天皇誕生日)、サンフランシスコ日本領事館の入口に「無政府党暗殺主義者」の名で「日本皇帝睦仁(むつひと)君(=明治天皇)に与(あた)ふ」という文書が貼りだされた。

「睦仁君足下(そっか)、憐れなる睦仁君足下、足下の命や旦夕(たんせき)に迫れり。爆裂弾は足下の周囲にありて将(まさ)に破裂せんとしつつあり」

明治天皇暗殺の予告である。在米日本人有志が結成した「社会革命党」の一員が書いた檄文だった。

折りから渡米中の東京帝大法科の教授・高橋作衛(国際法)が「社会革命党」内のスパイから情報を集め、事件の秘密報告書を作った。

報告書は元東大法学部長・穂積陳重(のぶしげ。法理学)、その弟の法科学長・穂積八束の手を経て、元老・山県有朋に届けられた。山県はそれを時の西園寺公望内閣の要人らに送り、警告を発した。

 

赤旗事件と『東北評論』

翌明治41年6月、神田で「無政府共産」の赤旗を掲げて屋外行進しようとした社会主義者たちと警官隊が衝突する「赤旗事件(錦輝館<きんきかん>事件)」が勃発。検挙された者のひとりが留置場の壁に「一刀両断天王首」と書く事件も起きた。山県は激怒し、社会主義に対する内閣の取り締まりが不十分だと天皇に上奏した。西園寺内閣は同年7月、総辞職した。

「赤旗事件」の余波はつづく。この事件を「日本における無政府主義運動の烽火也」と論評した『東北評論』が新聞紙条例違反で摘発され、編集人の高畠素之(たかばたけ・もとゆき。マルクス『資本論』の日本初の完訳者。のちに国家社会主義に転向)が軽禁錮2ヵ月の判決を受け、下獄した。

『東北評論』はこの年5月、高畠を中心に、彼の前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)時代の同級生で、東京帝大法科1年の大沢一六(のちに弁護士)らが群馬県高崎市で創刊した社会主義雑誌である。

高畠の下獄に伴い、長野在住の同人、新村忠雄(にいむら・ただお)が第3号の印刷人を引き受けた。ところが第3号も発禁となり、新村は11月、高畠と入れちがいに前橋監獄に下獄することになった。

翌年2月、軽禁錮3ヵ月の刑を終え出獄した新村は、郷里に帰らず、東京の幸徳秋水の玄関番として住み込んだ。ここに秋水の内縁の妻・管野(かんの)スガと新村、それに、このころ秋水宅に出入りするようになった機械工の宮下太吉という、大逆事件の中核グループ・3人が結びつくことになる(田中真人著『高畠素之 日本の国家社会主義』現代評論社刊より)。