野間清治の心境に変化をもたらした「長男の誕生」と「激動の時代」

大衆は神である(19)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

高等文官試験に合格しても、必ずしもバラ色の未来が開けるわけではないことを悟った野間清治に、大きな転機が訪れる。長男の誕生だ――。

牛肉の佃煮、古文書の筆写

野間清治が従来の自分の考え方を「人も自分もない」「金などというものは土芥を見るがごときもの」と語っていることに注目していただきたい。

若いころの清治は自他の境界線が曖昧で、自分の所有物と他人の所有物を厳密に区別しなかった。師範学校で同級生のシャツを無断拝借したり、沖縄で自らの俸給を抽斗(ひきだし)に入れっぱなしにして同居人が使うにまかせたりしたのは、そのあらわれだった。これには、「英雄豪傑は些細なことに頓着しない」という父・好雄の金銭観や侍気質の影響も大きかったのだろう。

ところが、資本主義の最前線・東京で清治の考え方は一変した。自分に残された立身出世の方法は、金を貯めて事業を起こすことしかないと思いはじめたのである。

清治は儲け口探しに躍起になった。沖縄からバナナや鰹節を取り寄せて売ったら儲かるのではないかと、あちこちの八百屋や鰹節屋と交渉したが、うまくいかなかった。

左衛が「いやです」というのを説き伏せ、彼女の郵便貯金70円を使って、沖縄の豚肉や牛肉を大量に取り寄せた。そのために神戸の氷室(ひむろ)から那覇に向けて氷を箱に詰めて送った。那覇に着くまでに氷が解ける。解けたすきまに那覇の肉を詰め、東京に送り返してもらった。

だが、長い航海の間に氷漬けの部分は肉がぶくぶくと膨れ、氷の当たらないところは臭くなっていた。仕方がないから臭くないところを佃煮にしたら、とてもおいしかった。清治は得意になって佃煮を皆に分け与えたが、一銭の収入にもならず、左衛の貯金は水の泡と消えた。

そのうち清治夫婦は、大学の古文書を写す内職をはじめた。写字料は1枚3銭。夫婦で夜遅くまで働き、日曜日にはたがいに100枚以上も仕上げた。奮闘の甲斐あって1年ほどたつと、沖縄時代の借金の半分ほどを返すことができた。

 

恒の誕生と緑会弁論部の発足

生活の余裕が少しできたので、清治と左衛は神田区神田台所町(現・千代田区外神田2丁目)の家賃9円の二階家に転居した。二階家といっても持ち主の住居を半分仕切って貸家にしたもので、1階は6畳と4畳半の二間に台所、2階は6畳一間。家の前の路地はぬかるみで、板が敷いてあったが、泥がはね返った。

明治42(1909)年4月、この借家で長男の恒(ひさし)が生まれた。恒はのちに日本一の青年剣士として知られることになる。次は清治の『私の半生』の一節である。

〈恒の誕生は、私の心にたいへんにぎやかさをもたらした。私の家庭を、いっそうほんとうの家庭らしくもした。そして私の責任感を強めた。私の燃ゆる功名心には、さらに一段の拍車がかけられた。いよいよ何物か偉大なるものをつかみたい。(略)ぐずぐずしてはいられないぞ。月日の過ぎゆくことのいたずらに早くして、自分の目標のいまだ定まっていないことに焦りだしてきた。将来ということについて、いっそう強く考えさせられるようになってきた〉

恒が生まれた年の秋、彼の出版人生の起点で、近代社会運動史上、特筆すべき出来事が起きる。緑会(東京帝大法科大学の懇親会)弁論部の誕生である。ちなみに緑会の名は、学内ボートレースの旗の色に由来している。法科は緑、文科は赤、工科は白である。

緑会弁論部の誕生は、それから9年後の「新人会」結成へとつながっていく。大正7(1918)年、緑会弁論部委員の赤松克麿(かつまろ)、宮崎龍介、石渡春雄の3人が弁論部長の吉野作造の指導のもと「新人会」をつくる。やがて同会は全国の学生運動のセンターとなり、多くの社会民主主義・共産主義の指導者たちを輩出することになる。