類似点が多いからと、パクったとか盗作だ、という騒ぎにならないのは、この「あらすじ」は「難病もの」というジャンルの様式だからだ。いまさら盗作も何もない。日本人が共有しているあらすじなのだ。
『君の膵臓をたべたい』は、有名な「あらすじ」を用いて、新しい物語の提示に成功したので、ベストセラーになったのだ。
では、その「新しい物語」とは何なのか。
この小説を「青春小説」と紹介した。あえて「恋愛小説」とはしなかった。それはこの物語の高校生カップルは「恋愛関係」にはないからだ。
男女の2人なのでとりあえず「カップル」という語を使ったが、2人は恋人ではない。高校生の男女が主人公でありながら、「恋愛小説」ではない点が、新しい。
前述のように、主人公は志賀春樹という名で、彼のクラスメートで膵臓の病気で余命いくばくもない女の子は山内桜良という。
偶然から、春樹は桜良の病気のことを知ってしまう。彼女は家族以外の誰にも、親友の女の子にも知らせていない。この秘密を共有したことで、それまでは口もきいたことのない2人の、奇妙というか、ちょっと現実味の薄い関係が始まる。
しかし、小説は特許ではないから、「新しい」だけでは意味がない。
小説も映画(実写、アニメとも)も、2人の関係は慎重に描かれているが、もっとも精緻なのは、実写映画だ。
生身の人間である俳優が演じるので、セリフや動作や間が1ミリでもずれると成り立たなくなる、ガラス細工のような構造となっている。
2人は自分たちの関係を、友だち・親友・恋人ではない、「仲良し」という言葉で説明する。
「仲良し」という言葉そのものは新しくもなんともないが、普通は、幼児、せいぜい小学校低学年までの男女の関係をいうだろう。高校生の異性間の関係で「仲良し」とはいわない(と、思うのだが)。この違和感が、実はこの映画の心地よさでもある。
さらに新しい感覚として、2人はお互いに「君」と呼び合う。
春樹が桜良を「君」と呼んだのは、彼がほとんどクラスメートと付き合わず、休み時間もひとりで本を読んでいる、孤独な青年だからである。当然、女の子と付き合ったこともなく、「君」以外の呼び方を知らないのだ。
映画では、桜良もまた春樹を「君」と呼ぶ理由として、春樹が「君」と呼ぶので、そう呼ばれたことがない桜良が面白がって、「わたしも、君って呼ぼう」と宣言して、春樹を「君」と呼び続ける。
映画は、このような説明を必要とするが、小説は自由度が高いので、桜良はいちいち「君」と呼ぶと宣言はせずに、「君」と呼ぶ。
この「君」という二人称代名詞によって生じる距離感が新しい。最初は奇異ではあるのだが、だんだんに心地よくなってくる。
実写映画で、主人公の姓が「志賀」であることは、最初から明かされるが、「春樹」という名だったことは最後まで伏せられている。
ここ実に巧妙で仕掛けがなされている。彼を名前、つまり、「春樹」と呼ぶ可能性があるのは両親だが、映画では母親が最後のほうにチラッと出るだけで、彼が名前で呼ばれないことの不自然さに見る者は気づかないまま、ラストへと向かうのだ。
さきほど、最後に3回、「泣かせる」シーンがあると書いたが、その最後の最後になって、彼が「春樹」という名であり、それがどうしてその瞬間まで提示されないかが、映画を見る者に分かるという仕掛けだ。
ラストで、映画『君の膵臓をたべたい』は「君の名」をめぐる物語になるのだ。