泣けるという宣伝が苦手な私が、いまさら『キミスイ』にハマった理由

よくある難病ものかと思ったら…
中川 右介 プロフィール

本との出会いは、いったんすれ違うと、再会は難しい。

その後、この小説が話題になりベストセラーになったことは知っていたが、二度と書店で手に取ることはなかったし、映画化されたのも知っていたが、見ようと思わなかった。

小説が、何かの賞でも取ればその機会に再び手にしたかもしれない。本屋大賞では第2位にはなったが、やはり1位との差は大きいから話題にならず、私は「読む必要はない」と判断し、スルーしていた。

ところが、映画を見てみたら、あらすじはたしかに「難病もの」なのだが、小説も映画も「難病もの」らしさは希薄だった。難病と告知される衝撃のシーンもないし、緊迫の手術もないし、放射線治療で頭髪が抜け落ちることもない。涙の臨終のシーンもないのだ。入院も「検査入院」ということで、お見舞いのシーンも明るい。

最初から最後まで、泣かせっぱなしの映画ではない。「泣ける」のは最後になってからで、映画版では、3回、立て続けに訪れる。そのため、「泣ける映画」の印象が強いのかもしれないが、実態は違う。

従来型の難病もの、告知、慟哭、死への不安、それを乗り越える、だけど死は訪れて――というプロセスの物語と思うと、まったく違う。

セカチューとの類似点

「難病もの」は、出版と映画では定番のひとつだ。10年に一度くらいは、フィクションかノンフィクションの難病ものがベストセラーになる。

ほとんどの難病ものは、なぜか必ず「若い女の子」が病気になって死んでしまう。男の子が死ぬ話は、あるのかもしれないが、すぐには思い出せない。

直近の難病ものベストセラー小説といえば、『世界の中心で、愛をさけぶ』がある。

実は『君の膵臓をたべたい』と『世界の中心で、愛をさけぶ』はいつくか類似点がある。

 

高校生のカップルが主人公で、女の子が病気になって死ぬという基本ストーリーはもちろんだが、男子の名前が有名文学者から取られている。

『世界の中心で、愛をさけぶ』の主人公は松本朔太郎で、『君の膵臓をたべたい』では志賀春樹。朔太郎は萩原朔太郎から命名されているが、当人は朔太郎がどんな詩を書いていたかには興味がない。志賀春樹は、命名の由来は明かされないが、文学少年という設定なので、当然、志賀直哉も村上春樹のことも知っている。ここは違うが、詩人・作家の名の主人公という点は同じだ。

ストーリー上の類似点としては、どちらも主人公は2人だけで旅行に行って一夜を過ごすのだが、男女の関係にはいたらない。彼女が死ぬ前に、もう一度2人で旅行に行きかけるのだが、それが果たされないことも共通する。

さらに、小説にはない映画版での類似点もある。どちらの映画も、彼女が亡くなってから十数年後に、残った男子が回想するという物語型式をとっている。つまり、現在と過去とが交互に描かれる。

その現在と過去をつなぐものとして、『世界の中心で、愛をさけぶ』では彼女が録音したカセットテープ、『君の膵臓をたべたい』では彼女が書いた手紙が登場する。

死んだ彼女が親しかった女性が、十数年後のパートで重要な役割で出てくる点も共通する。

二番煎じと言われてもしかたがないくらい、2つは「あらすじ」においては似ている。

『君の膵臓をたべたい』の脚本を書いた吉田智子が、『世界の中心で、愛をさけぶ』を知らないで書いたとは思えない。知った上で、あえて、より類似点が多くなる物語型式を選択したのだろう。それは自信の現れとも言える。

実際、類似点を上げてはみたが、2つの映画は、まったく違う印象のものなのだ。

この2作が似ていると批判する人は、ちゃんと見ていないのではないだろうか――と言いたくなるくらい、違う。

どうせ『世界の中心で、愛をさけぶ』の焼き直しだろう、というのは誤解である。

もしそれを理由に敬遠しているのだとしたら、もったいないと思う。