「新潮45」はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理

議論によって正すのは難しいが…
原田 隆之 プロフィール

また、ウケを狙ったつもりなのかどういうつもりか、次のようなことも書いている。

LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。
満員電車に乗ったときに女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。(中略)彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか。

面白くもなんともない。

レトリックにもなっていない。ただただ不快でしかない。性的指向や同一性の問題と性犯罪を同列に扱って、揶揄するところに、彼の深刻な偏見があからさまになっている。

あまり、長々と引用しても馬鹿らしいので、これくらいにするが、一事が万事この調子である。

〔PHOTO〕iStock

偏見の心理

それにしても、人はなぜこうも差別的で、平気で人を傷つけたり、貶めたりできるのだろうか。

これらの醜悪な記事を読んで、心理学者としての私の興味関心はそこに至る。

その名も『偏見の心理』という心理学の古典的名著を著した心理学者、オルポート1は、「偏見とは、基本的にパーソナリティの問題である」と述べている。

また、ナチスになびいた人々のパーソナリティを研究したアドルノ2は、「権威主義的パーソナリティ」がその根本にあったと分析した。

権威主義的パーソナリティとは、伝統主義、権威主義、弱者への攻撃性、強者への服従を特徴とするパーソナリティである。

マイノリティを貶め、体制におもねる人々の姿は、まさに権威主義的パーソナリティそのものである。

 

最近の理論では、ダキット3による「偏見の二重プロセスモデル」がある。これは、パーソナリティだけでなく、社会的態度というものを介して偏見が作り上げられるプロセスを説く。

そこで焦点が当てられる社会的態度には、「集団的優越感」「集団的凝集性」「集団的安心感」といったものがある。

日常的な言葉に置き換えると、マジョリティ集団に属している自分に優越感を抱き、その集団にすがることで安心感を得ているため、マイノリティや革新的な人々は、自分の安心・安全を脅かす者ととらえ、偏見を抱くだけでなく、攻撃的になる。これが偏見のプロセスである。

しかしその実、「集団」にしか自分の拠りどころのない彼らは、「個」としての自律性がなく、個人的なアイデンティティが未熟である。

たとえば、「私は日本人である」「私は男である」「私は普通である」などというアイデンティティは、いずれも集合的なアイデンティティである。

このように、ある集団に属していることでしか自分を定義できない者は、その集合的アイデンティティに優越感を抱くことでしか自分に自信を持てない。

したがって、ことさらにその集合的アイデンティティを強調する。そして、その集団に属さない人々、上の例だと外国人や女性、「普通でない人」などを貶めたり、攻撃したりする。ただ、個人では何もできないし、何も自分を定義するものがない。