日本中が沸いた大勝負で露呈した「母性依存という問題」

勝利への執着の裏にあったもの
佐伯 順子 プロフィール

 “多様性”に寛容な社会へ

大坂のアイデンティティもまた、スポーツ報道の枠組みを超えたエスニシティについての議論をまきおこした。

大坂は「日本人」なのか、という心無い疑問も発せられるなか、おそらくこれまで何度も同類の質問にさらされ、のりこえてきたと思われる大坂は、いつものように淡々と「私は私」と対応した。

この対応は、大坂自身が「ハーフ」の子供たちへの憧れとなったと喜んだように、アスリートにとどまらず、多様なエスニシティを背景とする人々のエンパワメントとなった。

この機会に、“純粋な〇〇”という発想がいかにナンセンスかをあらためて考えなおすべきであろう。

〔PHOTO〕gettyimages

日本の場合、“国技”といわれる相撲の世界において、外国人力士の活躍はすでに常識となり、横綱も外国人が占めるという状況。いわば相撲のグローバル化は進んでいるわけだが、それでも、“最初の外国人横綱”誕生の際には賛否両論がまきおこり、力士は大坂と同じように苦しんだといえる。

しかし、陸上界でも、ハーフ、いや、ダブルの選手が活躍していることは周知であり、その意味で徐々に開かれた状況になっているのは喜ばしい。

むしろアメリカのスポーツ界は、白人至上主義的な立場からみれば、バスケットボール、陸上等、とっくの昔に“純粋なアメリカ人”(あくまでも概念)でない選手たちが主力になっているのであり、ウィリアムズもその意味では重要な一人である。

オバマ大統領の誕生も、アメリカの黒人社会にとってはエンパワメントになったが、彼に対しても、“純粋な黒人”ではないなど、出自への議論があり、その困難を乗り越えた先に未来があった。

 

“自分とは異なるように見える他者”に対する差別は「女性」に対してのみならず、エスニシティについても性的指向等についても、残念ながらいまだ困難な現実として横たわっている。

必要なことは、エスニシティにおいてもジェンダーにおいても性的指向においても、人間の“多様性”について寛容になることであり、大坂の優勝はその様々な論点を喚起してくれたことで、「日本人女性初の優勝」というレッテル以上の社会的意義があった。

大坂の活躍が今後も、多様性を認める社会への原動力をなることを願ってやまない。