日本中が沸いた大勝負で露呈した「母性依存という問題」

勝利への執着の裏にあったもの
佐伯 順子 プロフィール

ここにはいわゆる「武士道」の精神が影響しているのではないか。おことわりしておくが、ここで「武士道」を持ちだすことで筆者は、安易な“日本礼賛”や“伝統賛美”のナショナリズムにくみするものではない。

なぜなら、現代日本人が考える「武士道」自体、明治以降の知識人が、理想とする「日本人」像を「武士」の姿に投影したものであり、「武士道」概念を研究した笠谷和比古や佐伯真一が指摘するように、歴史的現実としての武士の言動の実態と、近代以降に理想化された理念としての「武士道」とは必ずしも一致しないからである。

ただし、戦闘において敵を徹底的に憎む傾向が薄いという意味では、現代社会のスポーツの勝敗観には、日本の武士のふるまいの影響が認められると思われる。

戦闘においては当然、勝利が基本的目標ではあるが、武田信玄に塩を送ったとされる上杉謙信の振る舞いが、「敵に塩を送る」として美談化されているように、通常敵対している相手に対してさえ、一定の敬意を払うのが、日本の「サムライ」の美徳とされてきた。

『平家物語』において、平敦盛を討つことをためらった熊谷直実が、後に出家して敦盛の菩提を弔ったという逸話も、弔いをうける敦盛が出家した蓮生法師(敦盛)を「友」と呼び、「敵にてはなかりけり」(謡曲『敦盛』)と述べるように、最終的には敵も味方もなく同じ人間どうし手をとりあおうという悟りにも似た発想が、日本文化のなかでは好まれる考え方である。

こうした発想のプラス面は、選手、観客に共通する、勝者を讃える潔さ、礼儀正しさとして現れるが、マイナス面としては、勝利への執着が薄く、あきらめがはやいという傾向につながる。

今回のウィリアムズ選手のなりふり構わぬ勝利への執着は、さすがに海外のスポーツ界からも批判的にみられたが、勝敗が決した後の観客からの未練がましいブーイングは、それが大坂に向けられたものでなかったとしても(ウィリアムズの表彰式の際の発言)、海外の選手、観客にはありがちな、勝利への執着が一因であろう。

ブーイングという行為に対する海外のスポーツファンのハードルの低さ、白黒はっきりさせ敵を徹底的に敵認識する文化を考慮すれば、ブーイングされた大坂も大きく傷つく必要はないし、それでも謙虚な姿勢で挨拶した大坂の礼儀正しさが際立つことになった。

結果的に、試合の結末を美しくしめくくるためにも、また彼女自身にとっても、スポーツマンシップとは何かを考える上でも、救いになったといえる。

 

「ママでも金」への執着?

今回のウィリアムズの強い勝利への執着には、ジェンダーの問題も絡んでいる。

彼女が審判に主張した「女性差別」については、一部の男性選手からも同意が寄せられたが、この点については、当該審判はこれまで男女差別的判定をしておらず、ウィリアムズへの罰金という処罰で公的決着がついている。

そもそも、“運よく万引きを見逃された男性がいるから、女性も見逃してしてくれ”、という理屈は成り立たないのであり、ほかの人もやっているから自分もやっていい、というような抗議を認めてしまえば、社会の規律が成立しなくなってしまうという初歩的確認の必要性は、ジェンダー論以前の倫理、道徳的次元の問題である。

隠されたジェンダー問題はこの点ではなく、彼女自身が抗議の際に発した、「娘がいるのよ」という発言である。実はここにこそ、「女性差別」という枠組みにおさまらない、より深刻な差別問題がこめられている。

おそらくウィリアムズ自身は、激昂のあまり咄嗟にこの発言をしたのだろうが、子供がいない女性選手や男性選手は当然、同じことは言わないし、仮に同じように抗議する男性選手がいたとしても、「俺には子供がいるのだ」と発言するだろうか。

厳しいことを言うようだが、ここには無意識のうちに、“子供の前で恥をかきたくないから配慮してくれ”“子供に女王の姿をみせたい”という“甘え”がみてとれる。

この種の“母性”への依存は、社会の様々な場面で往々にしてみられるが、多くの場合は、親という役割を最大のアイデンティティにする立場にみられがちであるにもかかわらず、テニス選手として十分な名声を獲得済みであるウィリアムズにも同じ発想があることに驚いた。

言わずもがなではあるが、物理的に親であるかどうかは、公式なスポーツの試合の審判には全く関係がない。プライベートで親の立場にあることを、公的な勝敗の場面に持ち出すのは、明らかに“ルール違反”であり、選手の家族がどうあろうが、審判は公正になされるべきである。

これは、育児休業取得(の権利はもちろん男女ともに重要)というレベルでの権利主張とは全く別問題であることを、本人も社会もきちんと認識する必要がある。