2018.09.21

「アートで町おこし」には“無用なもの”を排除する欲望が潜んでいる

現代日本のアナキストかく語りき 後編
栗原 康 プロフィール

以前、無政府主義者であり、婦人解放活動家の伊藤野枝の評伝『村に火をつけ、白痴になれ』を書いたのですが、彼女はこんなことを言っています。

子供は所有物じゃない。女が子供を所有物だと思った瞬間に、もともと女は男の所有物だと言われてきたのと、同じことを繰り返してしまう。いったん、所有という感覚を捨てると、自分自身が子供に引き戻される。

子供は、わけのわからないことに無我夢中になって、誰に褒められるわけでもないのに木に登ったり騒いだりしている。それこそが力の成長なんだ、誰に褒められるわけでもないけど、何かができるようになる、そこに人間の生を感じる。私もそこに立ち戻ってみたい、と。

 

伊藤野枝の場合は、無政府主義者として無茶な活動をしたり、ムチャクチャな恋愛をしたりと、本当に自由で子供過ぎるのかもしれませんが(笑)。

しかし、今の社会は「子供であること」を許しません。予測不可能なものはすぐ予測可能なものに変える。いつ予測不可能なものが現れるか、常に怯えていて、現れたらすぐに新しいシステムに取り入れていく社会になっている。有用でないもの、予測不可能なものを常に封じていく。先程の話で言えば、無駄なおしゃべりを封じるような社会になっています。

「所有」の根源にある奴隷制

『負債論』で知られるデヴィッド・グレーバーが、面白いことを言っています。「所有権の前提になっているのは、奴隷制だ」というんです。

この所有という考え方が、様々な問題を生んでいる。グレーバーの所有の議論では、自分がそれを私的所有できると認められたら何に使ってもいい、ぶっ壊したっていい、それが所有権というんですが、普通そんなことはありえない。だって、ナイフ持っていたって、それで人を刺していいわけではありませんから。

しかしそのように、何かをどうとでも使っていい、という権利を認めたのが所有権です。グレーバーは、所有権とは明らかに「人が人を奴隷として家畜のように扱うようになったから生まれた」といいます。

では、奴隷とはなにかといえば、人でありながら人ではない存在です。たとえば戦争捕虜を殺さずに生かしてやった。だからオレの言うことを聴くのは当たり前だ、という発想です。奴隷が主人に逆らったならば、ムチを打ったって、殺したって構わない。どのように扱ってもいい存在として、生きる権利を奪い去っている状態が奴隷制です。

太古の時代の話に見えて、ほんの数百年前、いや、現代にも残っているのがこの奴隷制です。今の社会だって、よく見れば誰かが誰かの「奴隷」として、誰かのために生きています。恐ろしいのは、奴隷の側が、主人に生かしてもらっていると思って、主人のためにどれだけ役に立つかを考え始めてしまうことです。

自分の主人の所有物として、どれだけ価値があるのかを周りに示そうとしはじめてしまう。SNSのように、社会のために、何かに応答してしまう。何かの役に立ちたい! って。

現代の仕事の世界でも、まさに「奴隷労働」が当然になっているわけです。会社でみんな奴隷のようにこき使われているけれど、「カネを貰って生かしてもらっているんだから、ご主人様(会社)の役にたたないといけない」とがんじがらめに縛られている。

そういう気分を、大正時代のアナキスト、大杉栄は奴隷根性と呼びました。奴隷根性が染み付いてしまうと、もっと認められないと、役に立たないと、もっともっと……と過剰になってしまう。先程言った、相模原障害者施設殺傷事件の植松のようになってしまうわけです。

いかに役に立てるのかという考え方になることが息苦しい。なんども、なんども問いかけてみたいです。ほんとうにみんな奴隷でありたいのか? 奴隷であることが評価基準でいいのか? と。

どう考えてもおかしいんですけれど、それが、私たちの社会の今の実態なんです。でも、それってクソですよね。まずは、ただ一言だけ、叫んでみるといいんだと思います。チキショー!

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