2018.09.21

「アートで町おこし」には“無用なもの”を排除する欲望が潜んでいる

現代日本のアナキストかく語りき 後編
栗原 康 プロフィール

人々は「怒れなく」なっている

キレイで破綻のない安全圏にいたいと思うようになってしまった。だから、怒りの声を上げることもできない。いま、怒りづらい社会になっていると感じます。悪いことに対して、うまくいっていないことに対してチクショーと叫ぶこと、怒って行動に出るのはとても大切なことです。

なぜなら、チクショーと怒った瞬間に、SNS的な世界の軛から解き放たれるからです。そういう一瞬をいかに作っていけるかが大事なんです。そういう怒りの声に仲間が集ったりする。すると、あっ、オレもやれるぞ、オレもオレもって自信になる。

 

もちろん、政治的な抗議活動をしたときには、警察にメタクソに怒られるかもしれませんが、それでもムチャクチャやれたぞっていう力の感覚、いま現にあるものから外れてもやっていけるという生身の手応え。それがなによりだいじなことじゃないかと。しかし、いまはその怒りすらも「生産性」に回収されてしまっていないでしょうか。この違和感も、『何ものにも縛られないための政治学』を書いた動機です。

もちろん、安倍政権は無茶苦茶ですよ。アナキストで法律なんてどうでもいいと思っている私ですら、改ざんやら安保の問題をはじめ、とことんヤバイと思う。そこにチクショーといって立ち上がるのは当然だと思うんです。けれど、その安倍政権に抗議する人たちが、自分たちのことを縛り始めている。

photo by gettyimages

どういうことかというと、声を上げる時にいかに人数を集めて政治家にプレッシャーをかけるかといった、そんな「目的」が先に立っている。若者らしいカッコいいデモをすれば、一般の人も参加してくれる。そんな考えが先に立つ。

警察と揉めたりすると、メディアに危険だと言われるからそれは避けよう。よいプレッシャーをかけるためには、主催者のコールに合わせてみんなで同じコールをしましょう。平和な空間を作り上げてプレッシャーをかけましょう。

それって、すごくSNS的です。政権をdisるなら、キレイな言葉で効果的にと。でもそれじゃ意味がない。怒りっていうのは、そんなにキレイなものじゃなくて、心の底からチクショーと言って路上に出て馬鹿騒ぎをして、こんな世の中に従ってたまるかと身振り手振りする、そういう猥雑さが必ずあるはず。

なのに、すべてをコントロールしようとてしまって、運動の中で「どれだけ有用か」という世界になってしまっている。

私がタイトルに込めたのは、たとえいまの政権に批判的であっても、そのために自分で自分を縛りつけてしまっては意味がない、そういう政治にすら従わなくていいんだぞ、という思いです。本当に縛られない声を上げることが必要なんだと思います。チクショーって叫ばないと。有用性なんて知らない、生産性なんてないぞ!って抗わないと。いつまでも何かに縛られたままの世界は、クソです。

予測不可能なものを許せない社会でいいのか。

キレイでないものを排除しようということは、経済の論理です。それは同時に、予測不可能なものを極限まで排除しようとする考え方です。
 
近年のAIによる未来予測もその流れでしょうし、サイバネティックスといわれる、生物と機械の自動制御を考える理論もそうでしょう。しかし、それが大事なものを失わせてはいないでしょうか。

子供に「投資」をするという表現の怖さ

最近では、教育の世界にも経済の原理が忍び込んでいる。子供の未来すら予測して、どれくらい稼ぐのか、将来自分たちにとって子どもがいかに有用になるかを親が判断するような言説すらあります。

子供は、親の所有物でも、投資の対象でもありません。子供は究極のアナキストですから、子育てだってうまくいくはずがない。泣き止まない子供を前に戸惑って、自分もうろたえる。教科書通りの答えなんてないけれど、「この子に私は何ができるか」と考えることが、本当の意味での優しさです。
 
子育てをする20代から30、40代は、仕事でも経験が積み上がってきて、有能で仕事ができる自分を見出す年齢です。仕事を通して、目的を立ててそれに見合う結果を出すという生き方が出来上がっている反面、それに縛られる。それが、子供ができると取っ払われます。新しい生を子供と一緒に歩めるんです。

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