終わりなき「自分磨き」は、現代の奴隷労働にほかならない

現代日本のアナキストかく語りき 前編
栗原 康 プロフィール

でも、現代ではこうした仕事に限らず、どんな仕事でも人道的自由主義の側面を持っているのかもしれません。

工場で働いていたって、日々、「カイゼン」をしてあなたのクリエイティビティを反映させましょうとか、どんな仕事でもあなたの「個性」と「コミュニケーション」が大事ですとか、いち社員にもアントレプレナーシップ(起業家精神)が必要ですとか。なんでも「自己実現」に結び付けられている世の中ですからね。

 

でも、一見美しく見えるこの人道的自由主義を、シュティルナーは否定します。なぜなら、いくら労働を人間的にしたところで、労働とはなにかに縛られること。さらに酷いのは、やりがいのための自分磨きはいつまでも終わりがない。毎日、毎分、毎秒、自分磨きをし続けなければいけない。それができなければ、創造性がない、人間的でないと言われてしまうわけですから。

つねによりよくなれ、成長し続けろというプレッシャーを感じ続ける社会。そんなことを繰り返していたら、心や体を壊してしまう。それって、本当に人間的なのか。逆に、人道的なものに縛られているだけではないのか――人道的自由主義とは、新しい奴隷制なのではないかと、シュティルナーは当時から指摘していました。

もしかすると、今こそ人道的自由主義全盛の時代と言えるのではないでしょうか。

例えばサービス業でいうと、低賃金でもお客様のために笑顔でいましょうなどと、「やりがい」を搾取されている。アーティストのような一部の創造性が必要な仕事やエリートだけではなく、普通の人でも「人間なら」「社会のためなら」という考え方に縛られている。

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非正規雇用が激増して、どんな企業で働いてもいつクビになるか分からない時代なのに、人のために、社会のためにと頑張っている。高度成長期のような、大企業や国に支えられつつ、マンネリをこなしていればいいという働き方からは変わってきているのは良いことに見えているのかもしれませんが、シュティルナーからすれば、社会的自由主義から人道的自由主義になっただけ。

「生産性」の奴隷になる

何が今の社会を支配しているかと言えば、社会にとって有用でなければいけない、「生産性」がなければ生きていてはいけない、という考え方です。いつのまにか、それが当たり前になってしまいました。

私がこの本を書きはじめたころに、「相模原障害者施設殺傷事件」がありました。植松聖被告は事件直後、ツイッターで「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」とつぶやいています。

供述からもわかるとおり、美しい国のために役に立つ人間だけがいていいんだ、役に立たない人間は殺していいんだ、と考えていた。そんな考え方が、メディアを通して報じられるのをみて恐怖を覚えました。

 

植松はもともと障害者施設で働いていた。うまくいかずに無職になり、おそらく本人も経済の論理の中で自分が「役に立たない」というプレッシャーを感じていたのだと思います。だから、より「自分より役に立たない」と思う人を殺すことで、自分は役に立たない人間ではないと思い込もうとした。そういう社会的な承認を求める気持ちが、過剰になった。

もちろんこれは極端な例です。けれども、自分が役に立たないと認めたくないから、より「社会的に有用ではない人」を勝手に見つけて叩くという精神が、一般の人たちにまで、身体レベルで染み付いているのは確かです。

2000年代前半には、一部のエリートがいい出したことだと思っていた自己責任論も、今はむしろ貧しい人たちが内面化してしまっているように思います。

定職を持って家庭を持つのが当たり前で、それが大人の社会人なんだ。そういう「生産性」が必要だ。僕は37歳まで実家に住んでいて、いまのように自著を出すでもなくアナキズムの本をひたすら読んでいて、大学に職もない、という暮らしをしていました。付き合っていた彼女に何度も「死ね」と言われたものです(笑)。

労働環境は、男以上に女性のほうが厳しい。結婚をすると辞めるんでしょ、出産・育休で仕事に穴を開けるんでしょ、と言われてしまう。経済の「生産性」を持ち出されて、男より下に扱われる。そんな生産性に縛られているから、東京医科大学の受験で、男子が優遇されるなんて問題が生まれてしまうんだと思うんです。

生産性とか、有用性とか、社会の中で役目を果たさないと、とみんな思わされていますが、人間なんて、ご飯を食べて寝て、セックスするくらいで、何もしないのが本当は自然でしょう。何もしたくない。それが、いまは例えば家でダラダラしていると罪悪感を覚えてしまう。僕なんかは一日家でYou Tubeみたり、開き直っていますけれど。