学歴エリート受難の時代、野間清治が直面した「一生の危機」

大衆は神である(18)
魚住 昭 プロフィール

学歴エリート受難の時代

しかし、清治はいつまでも書記をつづける気はなかったらしく、「辞める。辞める」と口癖のように漏らした。出勤時間も遅れがちで、左衛が朝食の支度をしても起きてこない。仕方がないから、左衛は朝食を清治の弁当箱に詰め、机の上に置いて出勤する。

夕方、左衛が帰宅して、階下の人に「何時ごろ出勤しましたか」と訊くと、「今日は1時ごろでした」と答える。その割に、清治の帰宅は早かった。遅く出勤して早く退庁するのである。清治は「出るのが遅いから、せめて帰るのは早くするのさ」などと言ってすましていた。

口述録で彼はこう語っている。

〈(明治40年)の十月に行ったのですが、もう四十一年あたりはだいぶ慣れてきた。四十一年のもう末ごろになるといよいよ野心がある。実は、ひそかに高等文官(戦前の高級官僚)の試験を(受けよう)と、あるいはとにかくここで政治法律の学問を研究して、将来政治家の方面にでも行きたいような考えも最初はずいぶん持っておったのですが、だんだん見渡してみるとちょっとやそっと法律政治をやったところでなかなか難しい。よしんば弁護士の試験を受けたところでその生活は容易なものではない。高等文官の試験もよほどうまくいって二、三年、そうして合格してからがまたなかなか容易なことではない。そんなようなことがだんだんわかってきた〉

明治末期は、学歴エリート受難の時代である。

京大名誉教授・竹内洋(たけうち・よう)の『立身出世主義[増補版]―近代日本のロマンと欲望』(世界思想社刊)によると、帝国大学卒業生は明治25年(1892)にはわずか199人だったが、明治40年には583人になった。これに京都帝大卒業生を加えれば949人になり、15年間に4.8倍に増えたことになる。

それにつれて学士の就職難が深刻化した。明治25年度の卒業生のうち「職業未定又ハ不詳ノ者」は10.6パーセントだったが、年度が下るにつれて18.8パーセント(明治38年)、24.0パーセント(明治45年)としだいに「職業未定又ハ不詳ノ者」の割合が上昇する。

そして、高等教育卒業者の就職難が社会主義や無政府主義の「危険思想」の蔓延の種になるとの懸念が広がり、社会問題化した。
昇進遅延の問題も起きている。明治28年(1895)に法科大学を卒業し、官界に入った者は、16年後(明治44年)には大半が局長や知事クラスになった。ところが、明治40年前後の卒業生は、ほぼ同じ期間を経過しても(大正10年)ほとんど課長クラスだった。

高等文官試験合格者の経済的地位も低下した。官吏の給与水準が長い間据え置かれたため、明治19年に大工の16倍あった給与が、明治40年ごろには6倍弱にまで落ち込んだ。

 

これでは一生が葬られてしまう

つまり、何年か猛勉強して、運よく高等文官試験に合格しても、必ずしもバラ色の未来が開けるわけではないという現実に清治は直面したのである。口述録より彼の回想。

〈そうなると高等文官の試験とか弁護士の試験とかいったようなことがまだるっこい。何かもっとよい方法はないか。一面に沖縄に残してきた八、九百円の借財の始末をどうかしなければならぬ。郷里の父母にも少々は仕送りをしなければならぬというので、いろいろ考えた。考えた末に私の人生観がこのときに一変した。一変したといわんよりも豹変した。

今までは人も自分もない。人が来ればご馳走しなければいられない。たとえ経済がどうあろうとそんなことは構わない。金などというものは土芥(どかい=土とゴミ)を見るがごときものである。ところが東京へきてからは金の大切なことが日に日にわかってくる。それから人を頼りにする。あるいは人とどうなどということよりか、まず自分が独立しなければならぬ。お客があっても塩せんべいぐらいで間に合わせる。ずいぶん野間は人に対して冷たくなったな、と思われるようなことがあるまいかを頻りに気を病みました。けれどもこれを実行しようと考えたからには、実行できなければ野間の一生は葬られてしまう〉

ここは清治の重要な転換点である。     

〈つづく〉