学歴エリート受難の時代、野間清治が直面した「一生の危機」

大衆は神である(18)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

奔放・豪快でありながら、どこか憎めない人柄で、周囲の人々を惹きつけてきた清治。起業までの軌跡を追う第二部では、講談社創立の原点となった雑誌『雄弁』創刊前後を描く。

東京帝大内に開設された臨時教員養成所を修了したのち「いちばん俸給のいいところへやってください」と懇願、明治37年(1904)、当時もっとも月給が高かった沖縄県立中学校へ赴任した清治。その中学の校長の勧めで佐衛と結婚もしたが、そのときに東京帝大での首席書記のポストが空いた。校長へのお礼のために沖縄に留まることも考えた清治だが、佐衛と東京に移ることを決意する。

 

第二章 『雄弁』創刊前夜──帝大書記 ⑴

家賃3円の部屋からスタート

清治と左衛が東京に着いたのは10月初め。那覇を出て1月以上かかったのは、途中、神戸で船を乗り換えて、徳島の左衛の実家に立ち寄ったからである。

清治は徳島で歓待を受けた。左衛の父・定吉(さだきち)と意気投合し、2人で徳島近辺の名所旧跡をあちこち見て回った。遠く土佐の室戸岬まで足を延ばしたこともあったらしい。

東京帝大の始業日は9月10日前後。それまでに上京するよう言われていたのだが、清治はいつまでも腰をあげようとしなかった。左衛やとみが担ぎ上げるようにして上京させたのは、徳島に着いてから20日余りすぎたあとだった。

東京で最初に解決しなければならなかったのは、沖縄に残した1000円近い借金問題である。清治は出費を抑えるため、下谷区上野西黒門町(したやくうえのにしくろもんちょう・現・台東区上野1丁目)にある友人宅の2階(6畳と3畳の2間)を家賃3円で借りた。そこは天井の低い、汚い部屋で、ろくに日光がささなかった。通りに面した主要な窓が大きな表看板で遮られていたからだ。

左衛も京橋(きょうばし)の小学校の教師として働きはじめた。西黒門町から京橋までの電車賃5銭を倹約するため、2里ほどの距離を毎日歩いて通った。清治の帝大の俸給が45円、左衛が住宅手当を含めて約25円。そのなかから借金返済に毎月30~50円をあて、桐生の実家にも月に10~20円の仕送りをすると、いくらも残らない。

次はそのころ清治が「泮水会(はんすいかい)」(臨時教員養成所の同窓会)の会報に寄せた近況報告である。

〈(前略)本年八月一日結婚致し候。
 小生の眼には世界一の美人と思はれ候得供、如何なものに候哉。
 中学校長の周旋、四国の者、気が利くこと夥しく、朝寝致し居り候節は蕎麦など買ひ来りて決してまごつき申さず候。
 強いて申せば時々内緒に焼芋の買ひ食ひ致すくらゐが精々に候得共、これとて一銭五厘くらゐに御座候。(略)
 家は下谷にて、友人の二階、三畳に二畳(注・6畳の誤記か)程の二間に候得共(略)夫婦仲良く暮せば極楽浄土、何の不足も覚えず候〉