未完成であることが完成した姿、という小説もある

こそこそと書きつけたもの
吉田 篤弘

それで、つづきを書き始めました。

繰り返しますが、十五年前のことです。最初のうちは順調に書き進め、しかし、あるところまできて、はたりと止まってしまいました。

その先がどうしても書けないのです。何度も書きなおし、つづきを書こうとして、別の小説のアイディアが生まれるということが繰り返されました。

じつに十二年間──。

どうしても書き終えることができなかったのですが、十二年目の春に、世田谷文学館の開館二十周年記念企画として刊行する機会に恵まれました。未完のままです。

その本は活版印刷による限定出版で、活字の磨耗に耐えうる限度から考えて千四百部を刷り、そうした性格の本だったのでほとんど宣伝もしなかったのですが、およそ一年をかけて、有難く完売に至りました。

またノートのうしろの方に

今回の『おるもすと』はその限定本に書き下ろしの文章を加えたものです。

それだけではありません。前回の出版時と違うのは、未完と思われていたこの小説が、「いや、これで完成なのだ」と納得できるようになったことです。

言葉を変えれば、未完成であることがこの小説の完成した姿なのだと作者である自分がようやく気づきました。

このような小説は一生に一度だけのもので、おそらく二度と書けるものではなく、もし、書いたとしても、刊行は十五年後です。

いえ、可能性はあるのです──。

というのも、この文章を書いている途中で不意に衝動に駆られ、いま書いているノートのうしろの方に、この文章とは関係のない短い小説を書きました。

一週間もすれば忘れてしまうに違いありませんが、あるいは何年か先にノートを整理したとき、「何だろう、これは」と発見されるときがくるかもしれません。

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