24時間の環境管理…スマートハウスが人間の「快適さ」を激変させる

「環境のデトックス」が必要になる
塚越 智之 プロフィール

こうした値は、様々な研究の蓄積の上に導きだされたものだと思う。しかし、果たして「快適さ」とは外部から一様に与えられたり、客観的な数値によって、第三者から決められてしまうものなのだろうか

例えば、汗ばみながらも真夏の夜風に当たりつつ、リビングで乾いた喉をビールで潤すことや、真冬の朝の凛とした空気を吸い込み、寒さと眠さに目を細めながらベッドから離れることも、個人的に嫌いではない。

 

夕方の薄暗い部屋から、夕日にそまった街並を眺めるのもなかなか趣がある。このように快適さとはその時、その状況に応じて、身体と環境との対話を経て事後的に理解されるものなのではないだろうか。

未来のスマートハウスはこうした環境に身を置くことを、果たして許してくれるだろうか。

未来の僕たちは、こうした環境の趣を忘れていないだろうか。HEMSがすべての住居に普及するという近い将来、自動化し標準化された毎日が繰り返されるなかで、住まいにおける多種多様な体験が失われてしまわないだろうか。

こうした趣を忘れないため、HEMSをハッキングして自動制御を止め、変化に富んだ自然な環境に身を置くことの 必要性が叫ばれているかもしれない。

住宅との関わりがもたらす豊かさ

HEMSによって照明や温熱環境が自動制御された環境に暮らすことは果たして「住まう」ことと言えるのだろうか。言い換えるなら、そもそも「住まう」ということはどういうことだったのか。

ドイツ人哲学者のハイデッガーは1951年のダルムシュタット会議でおこなわれた「建てる•住まう•考える」という講演のなかで、「住まうこと」に関する考察をおこなっている。これは第二次大戦後ドイツを復興していく時期に、近代化によって住環境を整える様々な技術が生み出されていく中、「住まう」ことの意味を改めて考えるために語られたものだった。

その中でハイデッガーは、「建てる」にあたるドイツ語の古語が「住まう」ことや、「存在する」という意味をもっていたことに注目し、本来「住まう」こととは、人として「存在する」ことと同じであったと考えを巡らせている。

また、住宅という空間と住まい手は対立した存在ではなく、空間が住まい手の生き様を受け入れ、生き様を育むといったように、住宅と住まい手が一体的なものとして現れていたことを示唆している。

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一昔前の日本の家には、日射しや雨露をしのぐ深い軒と縁側があり、それが隣人との交流や暗がりから庭を楽しむ場所となっていた。京都の町家には、路地に面した商売のための土間と、寝食をおこなう私的な場所を分けるように中庭が設けられていた。そして向かいの路地に打ち水をし、中庭との気圧差をつくって室内に風を通していたという。

こうした事例からも、 住宅の生みだす環境の機微を読み取って暮らしに活かしたり、住宅のつくりと暮らしの所作を重ね合わせて環境に働きかけたりといった、空間と住まい手の関わりを垣間みることができる。そしてこうした関わりこそが、暮らしの中に多様で豊な経験をもたらしていたのではないだろうか。