大坂の陣の講和は、家康の陰謀だったのか?

オランダの史料に問いを解く鍵がある
フレデリック・クレインス プロフィール

この「口実」がでっち上げられたとする筋書きの発端は、大坂城の監視にあたっていた京都所司代・板倉勝重による家康への報告にある。板倉は、3月12日および13日付の家康の側近・後藤庄三郎宛の書状のなかで、大坂城にいる牢人が城から退去せず、豊臣方がさらに多くの牢人を召し抱え、秀吉の時代よりも大坂にいる兵士の数が増えていて、火薬の製造にも取り掛かり、明らかに再戦の準備をおこなっていると書いている。

板倉の書状の内容が事実であれば、講和を守らなかったのは豊臣側の方であり、ふたたび脅威に直面する家康にとって再戦の正当な理由となる。ところが、家康の方が豊臣方の再戦準備をでっち上げ、それを夏の陣の口実としたという陰謀説が根強く語りつづけられている。

このような陰謀説に一つの大きな問題がある。もしも、豊臣方が再戦の準備をしているという板倉からの書状が存在しないのであれば、家康が根拠なく口実をでっち上げたという論理は通るが、現に板倉の書状が存在しているということである。

駿府に帰還した家康にとって、その後の豊臣方の動向についての正確な情報の把握は、最重要課題であったにちがいない。家康には板倉以外にも複数の情報源があったことは想像に難くないので、もしも板倉がこの件について嘘をつけば、かえって家康から板倉の情報の真偽について疑いがかかるはずである。したがって、家康への報告という観点からみると、板倉が嘘をつくことは考えにくい。

 

オランダ人が残した民衆の噂

では、この状況について、板倉の書状以外の一次史料ではどう伝えられているのか。当時の状況を伝えている一次史料の一つとしては、同時期に大坂近郊にいたオランダ人の書状が現存している。

オランダ東インド会社の商品の販売を管理・監督するために関西に駐在していたオランダ人の商館員は、平戸オランダ商館長宛に定期的に発信する書状のなかで、現地で見聞したことを詳細に報告していた。オランダ人が得ていた情報は、当地の商人たちからのものだったので、大坂の陣の当事者の記録とは異なり、第三者から見た観点に立ったものである。

慶長20年2月1日に書かれた商館員エルベルト・ワウテルセンの書状では、徳川方が堰き止めた川を、豊臣方が1~2ヵ月後にふたたび開くという噂が広がっていることにすでに言及されている。

当時の大坂城は堀だけでなく、河川によっても守られていた。徳川方が淀川や大和川の流れを変えようとしたのは、大坂城の防備を取り除くことに資する方法の一つだったからである。ワウテルセンの書状から、豊臣方側の講和違約行為にあたる、堰き止められた川の再開の噂が、和議成立後2ヵ月も経たないうちに一般の民衆のあいだに流れていたことがわかる。

誰が社会を乱していたのか

また、家康がふたたび全軍を率いて大坂を攻めに行った理由について、当時の日本側史料には記述が見当たらないが、慶長20年4月4日に発信されたワウテルセンの書状にはその理由について次のように書かれている。

大御所がふたたび大坂へ来る理由は、私の理解する限り、下記の武将の収入〔知行〕を没収した結果、彼等が秀頼様の保護を受けに行き、前述の秀頼の城の攻囲の際に立派に責務を果たし、必要に応じて助言や行為で支援していたからということのみである。そのため、大御所はそれらの人物を退去させるよう同秀頼に伝えた。また、それが実現しなければ、ふたたび戦争をしに来るとの考えを〔大御所が〕持っていた。したがって、秀頼はそのような人物を退去させることを望んでいないので、ふたたび戦争になると皆が言っている。〔後略〕

この書状の内容からは、家康による再戦の理由は、冬の陣で豊臣側で戦っていた軍を解散すべき旨を家康が秀頼に勧告したのに対して、秀頼がそれを拒絶したという点に求められるのではないかと読み取れる。

家康の出陣の理由について言及しているワウテルセンの書簡、大坂、1615年5月1日付(慶長20年4月4日、オランダのハーグ国立文書館所蔵)

また、同じ書状に、豊臣方の兵力が15万人に増えたという噂が流れているとの記述もある。ほかにも、ワウテルセンの書簡には、民衆が被っていた牢人による被害や焼き討ちに対する不安に関する言及も随所にみられる。オランダ側史料におけるこれらの記述は板倉の書状の内容を裏付けるものであり、家康が根拠なく口実をでっちあげて和議の約束を破ったという陰謀説には疑問の余地が大いにある。

冬の陣で豊臣・徳川両軍が衝突した時点で、豊臣方がかなり追い詰められていたことは明白である。致命的だったのは、大名のうち一人も豊臣側に加わらなかったことだった。オランダ側史料においても、社会を乱していたのは、巧妙な手口で戦争を仕掛けた徳川方ではなく、牢人たちを集めていた豊臣方の方であるという認識が一般民衆のあいだにあったことが読み取れる。

そのような状況のなかで、攻囲を解く代わりに、家康にとって脅威であった大坂城の防備をなくし、牢人集団を解散するという条件は豊臣方にとって特段に悪い条件ではなかったはずであるし、豊臣方が我慢して条件を守っていれば、夏の陣が起こらなかった可能性もあったかもしれない。そして、牢人たちを退去させることによって、民衆のあいだに蔓延していた社会不安を取り除くことが、民意に沿うことだったはずである。

*クレインス桂子は本稿を校閲し、読みやすいものにしてくれた。ここに厚く感謝を申し上げる。

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