大坂の陣の講和は、家康の陰謀だったのか?

オランダの史料に問いを解く鍵がある
フレデリック・クレインス プロフィール

そして、この筋書を裏づける拠り所としてつねに持ち出されてきたのが、「徳川方による内堀の埋め立て強行説」であった。

和議の条件として、徳川方が外堀を、そして豊臣方が二の丸・三の丸の堀を壊平すると決められていたが、豊臣方側の工事がなかなか進まないので、豊臣方の意に反して、徳川方が内堀の埋め立てまでも強行し、豊臣方は、和議の約束を一方的に破った徳川方の「ペテン」に引っかかって、不利な状況に追い込まれたという(岡本良一『大坂冬の陣夏の陣』1972年刊)。

しかし、このような、「埋め立て強行」イコール「和議違反」という説の裏付けに持ち出される史料はあくまでも後代に記された物語であり、当時の一次史料には見当たらないということを笠谷和比古がすでに『関ケ原合戦と大坂の陣』(2007年刊)において実証した。

笠谷によると、本丸のみを残して、二の丸まで壊平することは豊臣方も諒解していた当初からの和議条件であり、この件に関して双方のあいだにトラブルも起こらなかったという。

 

豊臣方は被害者なのか?

そもそも、堀の埋め立てについて豊臣方を被害者扱いすることに疑問が残る。豊臣方がペテンに引っかかったとする堀の埋め立て強行説は、和議成立の時点で豊臣方が優位な立場に立っていたという前提に基づく。しかしながら、優位な立場に立っていたのは、豊臣方ではなく、徳川方であった。

というのは、包囲された豊臣方が取っていた籠城という戦略は援軍到来の可能性がないとその勝算は絶望的である。大名が一人も豊臣側につかなかったという状況のなかで、有力な援軍が到底期待できないことは明白であった。

もちろん、豊臣方は冬の陣において、真田丸を中心にいくつかの武功を挙げている。しかし、大坂本願寺(石山本願寺)が信長に対する籠城の時に海路で物資供給を確保していた場合と違って、冬の陣では、豊臣方の物資供給が断たれたので、いずれ兵糧や弾薬が底をついて、大坂城の防備が役に立たなくなるのは必至だった。

このような状況下で、堀の埋め立てと引き換えに徳川方の包囲が解かれるという条件はむしろ豊臣方に有利であったとも言える。

もしも、和議が破られ、ふたたび戦争になれば、堀のある大坂城の堅牢な防備は逆に豊臣方にとっては足枷になる。というのも、堀の埋め立てをしていなければ、豊臣方が城の防備を過信してふたたび破滅必至の籠城戦に突入してしまう可能性があったからである。

しかし、実際には堅牢な防備を失っていたため、豊臣方は最終的に背水の陣で家康の首を狙うべく、野戦での徳川方との決戦に臨んだ。

他方、家康の立場から和議の条件を見てみると、反対勢力の温床となりうる大坂城という脅威さえなくなれば、徳川家の地位が安泰になる。そのような観点からみると、家康が秀頼に対して大坂城から出て、別の領国への移封を強く要求することは当然の流れだった。

「家康肖像画」ロバート・ホープ『日光東照宮』1896年刊所収(国際日本文化研究センター所蔵)

しかし、その移封命令を秀頼は拒絶した。もしも、秀頼が移封命令に従っていれば、徳川家の地位に対する脅威を取り除くという家康の目的が達成され、夏の陣が起こらなかったかもしれない。

板倉勝重による報告

和議をめぐる陰謀説のもう一つの側面として論じられてきたものとして、大坂城を裸城にした家康が新たに夏の陣を始める口実として「秀頼がふたたび戦争の準備をしている」ことをでっち上げたとする捏造説がある。

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