大阪城(Photo by iStock)

大坂の陣の講和は、家康の陰謀だったのか?

オランダの史料に問いを解く鍵がある
英雄ではなく、民衆を主語として、白村江の戦い、応仁の乱、大坂の陣、禁門の変など日本史上の戦乱を論じた『戦乱と民衆』。刊行を記念した特別エッセイの第4弾は、国際日本文化研究センター准教授のフレデリック・クレインス氏。民衆のあいだに流れていた噂とは? 大坂の陣の講和は陰謀だったのか?平戸オランダ商館文書をもちいて、大坂の陣を読み解く。

◆『戦乱と民衆』公開記念 ◆
第一弾 呉座勇一氏エッセイ「一揆はほんとうに「進歩的な勢力」が担っていたのか?」
第二弾 倉本一宏氏エッセイ「いつの世にも、戦争を喜ぶ民衆はいるんです」
第三弾 井上章一氏エッセイ「亡命者を出さなかった明治維新

滅亡に追い込まれた豊臣氏

徳川家康は方広寺鐘銘事件を大義名分として、慶長19(1614)年に全国の大名に出陣の命令を出して、20万人の大軍で豊臣秀吉の継嗣・秀頼のいる大坂城を攻めた。いわゆる「大坂冬の陣」である。

圧倒的に有利な徳川方に立ちはだかったのは、難攻不落の巨城の堅固さと真田信繁や後藤又兵衛のような勇敢な武将たちであり、戦いは硬直状態に陥った。そこで家康が思いついたのは、砲撃戦だった。豊臣方よりも射程距離の長い大砲で昼夜大坂城を砲撃することで城内にいる勢力に揺さぶりをかけた。それが功を奏し、豊臣方は和議交渉に応じた。

オランダ人ヨハネス・フィングボーヌス「大坂城図」(1665年作、オランダのハーグ国立文書館所蔵)

交渉の結果、大坂城の「惣堀の埋め立て」を条件に秀頼の身の安全と所領の安堵が保障されることで折り合いがついて、和議が成立した。徳川方は早速、堀の埋め立てに着手し、大坂城の防備を徹底的に破壊した。家康はいったん駿府へ戻ったが、和議成立後わずか4ヵ月しか経たないうちに、ふたたび全軍を集めて、大坂に向かった。

このように勃発した「大坂夏の陣」では、大坂城の防備を失った豊臣方は野戦に臨むほかなく、善戦しながらも、兵力に勝る徳川方を撃破できず、最終的に大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡に追い込まれた。

 

埋め立ては強行されたのか?

このように事の成り行きを辿っていくと、家康が和議の条件として出した堀の埋め立ては、大坂城を裸城にし、その後の2度目の大坂城に対する攻撃に備えるためだったようにもみえる。言い換えれば、家康は最初から講和を守ることをまったく考えていなかったということになり、これまで長いあいだそのような陰謀説めいた論調で大坂の陣が語られてきた。