「断片化と細分化の違い」に気づかせてくれた髙木先生の「たわけ」論

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
水越 伸 プロフィール
たわけたわけの先には……? Photo by iStock

アメリカでも進行するたわけ現象

とくにアメリカでは日本以上に、誰も学会の全体像や学説史など気にしない。

ICAへ行ってみると、会員の多くはそれぞれの分科会の催しにしか足を運ばないことがわかる。大半はアメリカの大学を出ており、出身大学、あるいは出身研究室の仲間らと会合をもつ。その人たちはほぼ同じ分科会を構成しているわけだから、国際学会とはいえその内実は、髙木先生に言わせればたわけの集まりである。

ICAICAの2013年ロンドン大会のパーティの様子。よく見ると、同窓会的な小さな輪がいくつもできており、1対1で話している人はほとんどいない。筆者撮影

新たな分野を独立させようという細分化の意図をもつ者さえ少数派であり、大半は自分の棲息する田んぼをあたりまえのこととして受け容れ、ほかの田んぼにはほとんど関心を示さない。そうしないと大学で地位を得ることがむずかしいことも大きい。

いずれにしてもそれはもはや細分化でもなく、断片化である。

「断片化」に主体性はない

細分化が一般的概念であるのに対して、断片化は、じつはコンピュータ用語に起源をもつ。

細分化は、なんらかの主体がものごとを細かく分けていくことを指し、その意味には「分ける」という行為の主体性が含み込まれている。

一方、断片化はおよそ次のような問題を指す。ハードディスクなどのメモリに保存されているファイルは、何度も書き替えたり、移動したりするうちに、もともと記録されていた場所に収まりきらなくなって、複数の場所に分割されて書き込まれるようなことが生じる。複数箇所にアクセスするには時間がかかり、結果としてコンピュータの処理能力が落ちてしまうという問題だ。

デフラグPCの断片化解消処理(デフラグ)画面 Photo by uıɐɾ ʞ ʇɐɯɐs / Flickr

断片化は、ある全体的なものごとを動かすうちに、図らずも欠片(かけら)になっていく現象を指す。それはそんなつもりもないのにそうなってしまう、つまり行為の主体性は含み込まれていないのだ。

本当はたわけ界から出たくない人々

数年来、学問の危機、大学の危機が叫ばれている。

多くの学者は、学問の自由、基礎研究の重要性、文系学問の必要性を唱える。僕はその手の議論に出遭うたびに複雑な気持ちになる。

なぜなら大半の学者が、いつ誰がどういう経緯でこしらえたかも知らない田んぼにずっといることを心の底ではよしとしていて、本当はそこから一歩も出たくないのを、僕は知っているからだ。

断片化した者たちは主体性をもたないから束になることができず、結局は政治家や資本家にいいようにやられてしまう。そのことを思うと腹が立つ。

危機を克服するためには学会や大学の改革が必須だろう。近年、古い建物を生かしながらそこに新たな価値をもたらし、地域の中での意味を蘇生させるリノベーションに注目が集まっている。それが学問にも必要なはずだ。

断片化した学会をリノベーションするために必要なものはなにか。学会史をふり返れば、シュラムや髙木先生のようにプロデューサー感覚をもつ、抜きんでた個人が不可欠なことだけはまちがいないようである。

参考文献: ウィルバー・シュラム編/学習院大学社会学研究室訳『新版 マス・コミュニケーション:マス・メディアの総合的研究』東京創元社、1968年(原著:1966年)

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