「断片化と細分化の違い」に気づかせてくれた髙木先生の「たわけ」論

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
水越 伸 プロフィール

髙木先生によれば、たわけというのは、先祖伝来の水田を子孫に相続していく際に2つに分け、3つに分けというかたちで細分化してしまい、結果として収穫量が減って子孫全体が衰退してしまうことだという。

それぞれは自分だけの小さな土地を手に入れて喜びはするが、長い目でみれば結局は一族としてダメになってしまう。そこで田を分けることは愚かなこと、馬鹿なことを意味するようになった。

先生はたしか、織田信長がそういう意味でたわけという言葉を使った、とおっしゃった気がする。

しかし、いろいろ調べてみると、たわけは「戯け」を語源としているらしく、先生のたわけ解釈は俗説らしい。

ただ、言わんとすることはわかる。メディアやコミュニケーションの研究は本来的に学際的なものであると同時に、全体性をもった領域であるべきなのだ。

「水越くん、たわけはダメですよ!」なるほど、である。

髙木経典,水越伸髙木教典氏(左)と筆者。2008年3月、福武ホール設立記念イベントにて撮影

細分化と断片化をわけるもの

僕はもともと学会という組織にあまり熱心に関わってこなかった。それでもメディアやコミュニケーションの研究領域で、「たわけ化」が進行してきたことは実感している。

ただ、たわけには2つの意味というか、2つの段階があるように思うのだ。

1つは細分化である。英語で言えばsubdivideしていくこと。

髙木先生はどう思われたか知らないが、80年代後半に新聞学会から分かれて放送学会をつくろうとした研究者たちには彼らなりのもくろみがあったはずだ。

いい方を換えれば新聞学会に対する不満があり、そこから抜け出て自分たちらしい領域を開拓したいというビジョンがあったはずで、そのこと自体を否定することは乱暴すぎるだろう。

つまり細分化は、ある種の必然性をはらんでいるのではないだろうか。

しかし細分化が進んでしばらく時間が経過すると、すなわち分けられた田んぼのありようが定着してしまうと、人々は細分化当初のビジョンを忘れてしまう。こじんまりした領域があたりまえになるのである。

この段階はもはや細分化ではなく、断片化と言えるのではないか。英語で言えばfragmentationである。