就活したくなかった本当の理由

なぜそこまでかたくなに就活をしたくなかったのか。

就活では、エントリーシートにしろ面接にしろ、とにかく自分をPRすることが求められる(みたいだ)。

だけど僕は企業に向けて自分をPRしたくなかった。世の中に尻尾を振るような真似をして人に使われるような犬みてえな人生は送りたくねえという理由からではなく、自分には組織の一員として働くうえでプラスと判断される長所、アピールポイントが何一つないことを、自分がいかにだめな人間であるかを、知っていた(少なくとも知っているつもりだった)からだ。

僕には協調性も忍耐力もコミュニケーション能力も努力を惜しまないひたむきさもない。それまでの自分の人生を振り返ればわかる。学生時代、こんなことに粘り強く取り組んで、こんな経験をして、こんな得難い財産を得ました。その経験を糧に云々。のようなことが一つもない。

学部にいてもサークルにいても自分の居場所ではないような気がして、なんとなくいつも心ここにあらずで、かといってあるのかわからない自分の真価を発揮する場所を積極的に探すこともせず寝てばかりいた。それをそのまま話せば逆自己PRにはなっても自己PRにはなりえない。だとすればありもしない就活向けの長所を作って自分を偽るしかない。

でも「自分がどれくらいだめな人間が知っている」という唯一の美徳(というほど立派なものではないけど)を捨てて、自分を本当よりちゃんとした人間に見せかけることは不可能だった。俺は自分に嘘はつかねえという信念めいた人間的強さのためではなく、そうした嘘や演技で自分を自分以外の何かに見せることを試みたところで自分のやっていることの馬鹿馬鹿しさに耐えられなくなるだろうことがわかっていたからだ。それ以前に、そもそもそういうたぐいの器用さは自分にはない。

コミュニケーション能力ない奴はどうしたらいい

就活をかたくなに避けた理由がもうひとつあった。

それは「コミュニケーション能力」という言葉だった。当時、この言葉が異様に流行っていた(当時流行っていたというか、もっとずっと以前から重視されていただろうし、いまはより重視されているだろうけど)。どこに行っても馬鹿の一つ覚えみたいに「コミュニケーション能力が最重要」という言説が目に耳に飛び込んできた。繰り返されるうちに僕はその言葉に反感を覚えるようになっていた。

前置きをしておくと、就活に限らず社会に出て人と関わりながら働くうえで、限られた時間内で自分の思っていることを明確に伝え、相手の意図を汲み取り、円滑なコミュニケーションを実現する能力が最重要視されてしかるべきだということに異論はない。

まともにコミュニケーションできないやつはたしかに困る。でもあまりにもコミュニケーション能力至上主義みたいなものが加速している(ような気が僕はしている)のを見ると、ある種類の生きづらさを抱える人たちが端に追いやられ、排除される世の中になるのでは、と不安に思わずにはいられなかった。

ある集団面接で、ハキハキとしゃべる男がいる。論旨は明確であり声も話す言葉も明瞭で、愛想もいい。しかしよくよく聞くとそこに彼自身の考えはひとつも含まれていない。ただ、その短い面接時間で面接官が受ける印象や感触はすこぶるいい。

一方、何を話すにも話の順序がめちゃくちゃで、いまいち何を伝えたいのかわからない人がいる。おそらく何か自分なりに考えていること/思っていることがあるのだろうが、限られた時間でうまく伝えることができない。面接官は首をひねって、もういいよと言う。

就活において「コミュニケーション能力がある」と重宝されるのはおそらく前者で、後者はおそらくはじかれる。