「こんなノックじゃ選手に申し訳ない」智辯和歌山前監督、引退の理由

またひとり、名将が去っていく
週刊現代 プロフィール

もともと、日本体育大学を卒業して奈良の智辯学園に勤めていた高嶋が智辯和歌山に赴任したのは、'80年のことだった。

「移ってすぐ、『さあ、やったろう』と徹底的にしごいたら、次の日に部員が一人もグラウンドに出て来なかった(笑)。『そうか、この子らは甲子園なんて目指していないんや』と気がつきました。

当時の和歌山は、尾藤公さん率いる箕島が'79年に春夏連覇し、絶対王者として君臨していました。全国最強の学校を倒さないと甲子園には行けない。なんとか意識を変えないとあかんな、と」

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子どもたちをやる気にさせるには、どうしたら良いか。高嶋が出した結論は「本物の強さ」を肌で感じさせることだった。

「それで、奈良時代に交流のあった池田(徳島)の名将・蔦文也監督に練習試合をお願いしたら、『おう、すぐ来い』と快く胸を貸してくれました。

蔦さんはこっちが弱いと知りながら、ベストメンバーを揃えてくれた。30点以上取られて、完膚なきまでに叩きのめされました。

当然の結果だけど、試合が終わるとウチの選手たちが泣いているんです。圧倒的な相手に負ける悔しさを、彼らは初めて知った。目の色を変えて練習するようになったのはそれからでした」

 

地元出身の子どもたちを、徹底した練習で鍛えあげる高嶋流の指導がようやく実を結び、智辯和歌山が初の甲子園の切符を掴んだのは、赴任から6年目のことだった。

以来、高嶋は春夏あわせて35回甲子園に出場し、数々の名場面を演出してきた。なかでも自ら印象に残る大会として記憶しているのが、'06年の夏、第88回大会だ。

「準々決勝の帝京(東京)戦で、9回裏に4点差をひっくり返した興奮はもちろんですが、なんと言っても忘れられないのが準決勝で対戦した駒大苫小牧のエース・田中将大です。いろんなピッチャーを観てきたけど、彼はちょっと格が違いました。

甲子園で対戦する前から、150kmのストレートと『消えるスライダー』を投げるとんでもない投手だということはわかっていた。北海道の親しい監督に『どうしたら田中に勝てると思う』と聞くと、『とにかく待つしかない』と言うんです。

打ちごろの球を待つということかと思ったら『絶対打てないから、卒業するのを待つんだ』って(笑)。

あれをなんとかバットに当てるには、より速い球に慣れるしかない。打撃マシンのストレートを160km、スライダーを140kmに設定して、猛特訓を繰り返しました」