真の平等とはなにか? 植松聖と杉田水脈「生産性」発言から考える

ポリコレで批判することは簡単だけれど
綿野 恵太 プロフィール

逆説的だが、「同和利権」や「在日特権」といった差別は、平等を求める運動であった。つまり、被差別部落の人々や在日朝鮮人は特権を持っていて、その特権を剥奪して真の平等を実現したいと考えていた。

もちろん、そのような特権は現実には存在せず、はっきりいって間違いである。しかし、それ以上に間違いなのは、そこで求められたのが、新自由主義的な平等であることだった。

つまり、あらゆる利権や特権をなくして、全員が同じ条件で競争する、といった平等だった。

杉田水脈や植松聖にも同じことがいえる。「生産性」のない人間が人的・金銭的な支援を受けるのは不公平だ、という考えを持っている。その根底にあるのは、労働した成果に見合った報酬を受け取るべきだ、それこそが平等なのだ、という発想である。

それは現在の市場経済のベースとなる平等の考え方だ。さきほど「生産性」という言葉で安倍政権と同じ地平を共有していると述べたのは、どちらもこの平等を前提としているからだ。

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「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」

ところで、カール・マルクスは平等について興味深いことを述べている。

マルクスは社会主義を「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」と定義した。つまり、資本主義では資本家が労働者を不当に搾取したが、社会主義では労働者が労働の成果に見合った報酬を受け取ることができる、と。

「生産性」に見合った報酬を受けとることは、平等が実現されたかに見える。そして、社会主義ならずとも現在の市場経済において、そのような平等はある程度実現されているかのように見える。

しかし、マルクスによれば、これは真の平等ではない。マルクスは共産主義を「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と定義し、これこそが真の平等なのだと主張した。

 

差別解消に向けた当面の現実的な政策は、ポリティカル・コレクトネスの徹底と、不公平感を生まないためにも、支援を必要とする人々だけでなく、ミドルクラスにたいしても手厚い社会保障をおこなうことだろう。

しかし、そのような社会は「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」ことを前提にした社会なのだ。ふたたび間違ったかたちで平等を実現しようとして、差別が繰り返されるだろう。

差別に対抗するためには、平等の考え方を変えていくことも必要なのだ。繰り返すが、真の平等とは「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことである。