真の平等とはなにか? 植松聖と杉田水脈「生産性」発言から考える

ポリコレで批判することは簡単だけれど
綿野 恵太 プロフィール

第二次安倍政権のリベラル化は、保守勢力にも共有されているようだ。『民主主義の敵』(青林堂、7月)で杉田は評論家の小川榮太郎と対談している。

そのなかで小川は、安倍政権が2013年を最後に靖国神社参拝を見合わせ、2015年には従軍慰安婦問題の日韓合意を締結したことを挙げて、「いまの安倍総理は自分のコアな支持者を肝心なところで裏切っているんですね」と指摘している。

安倍政権のリベラル化が進むなか、小川は杉田水脈といった若手議員には「暴走族」の役割を期待しているという。

自由がきかない立場にいる安倍総理に代わって、「安倍総理の本来の政治路線を右側から打ち出」すために、「若手議員のなかで、暴走してもらうほかない」と。

これにたいして、杉田も「小川さんがいう『暴走する役割』というか、そういう役割があって〔自民党に〕来たんだろうなって思います」と同意している。

 

ここでいう「暴走族」とは、フェミニズム批判の急先鋒であり、従軍慰安婦問題を扱ったNHK番組に改変を迫ったとされるかつての安倍晋三のふるまいを指すようだ。

たしかに、慰安婦問題へのバッシングや「反日」研究の科研費に対する圧力、といった杉田水脈の活動は安倍晋三をほうふつとさせる。

しかし、逆に考えれば、杉田の過激な発言は、安倍政権がリベラル化したことで、「コアな支持者」が離れてしまうことへの危機感のあらわれでもある。

つまり、「コアな支持者」をつなぎとめるために、安倍政権への熱烈な支持を語りながら、発言の過激さは増していったわけだ。

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間違った「平等」を求める差別

アメリカのトランプ政権誕生の背景には、前オバマ政権がポリティカル・コレクトネスを重視したことへの激しい反発があった。

スポーツ界で相次ぐパワハラ告発に象徴されるように、現在、日本でも東京オリンピック開催にむけてポリティカル・コレクトネスが徹底化されていっている。

そして、それへの反発は対立らしい対立にならないまま、自民党内でくすぶっている。しかし、いつ、アメリカのように激しい政治的対立として表面化するかわからない。

ポリティカル・コレクトネスで杉田や植松を批判することは簡単だが、しかし、それだけでは不十分なのだ。杉田や植松が差別することで主張している別のなにかを考えなくてはならない。