野間清治が、徳島から才媛を嫁に迎え東京へ戻る日

大衆は神である(17)
魚住 昭 プロフィール

披露宴の最中に電報が

左衛を乗せた船が那覇港に着いたのは7月31日。その翌日、清治の借家で式が行われた。新婦側の出席者はなし、清治の両親も来ていない。左衛の親代わりは大久保校長夫妻だった。

 

三々九度の盃が交わされる瞬間、清治と左衛は初めてお互いの顔の何分の一かを見合った。

披露宴は二日も三日もつづいた。今日は県庁の人々、明日は中学の先生たち、その次は、それ以外の親しい人たちと、招待客は途切れることがなかった。

その披露宴の最中に東京帝国大学の書記長・松永武雄から「東京に来ないか。よい口が見つかった。委細ふみ」という電報が届いた。大久保に相談したら、

「いや、せっかく結婚したばかりで行くのは早いだろう。行くのは止めたまえ。大いに我々のためにも尽くしてもらいたい」

と言われた。1週間ほどして松永から手紙が届いた。松永は「東京帝大法科大学の首席書記に欠員ができた。このポストをねらって自薦、他薦、必死の運動が行われている。しかし教員養成所時代の君の希望も聞いているので、東京にいい口があればと心がけてきた。だから、このポストは君にと思っている」と言ってきた。

清治の心は揺れた。

野心に火がついて

東京帝大の、しかも法科大学の首席書記のポストなんてそう滅多にあるものではない。しかし、清治には大久保ほか沖縄の人々に義理がある。それに多額の借金もある。これをきれいにしてからでないと沖縄を離れられない。清治は断わりの手紙を出した。

10日ばかりして教員養成所時代の同窓生から「こんなよい地位を前にして、あっさり断るなんて、そんな馬鹿げたことがあるものか」と詰問の手紙がきた。養成所の恩師・岡田正之(おかだ・まさゆき)東京帝大教授からは「自分のみならず、その他の先生方もみんな君の上京を希望しておられる。もし、しばらくこの仕事をやって、どうしてもこの仕事に気が向かないなら、そのときはまた別の口を考えてあげたい」と言ってきた。

清治の野心に火がついた。左衛は夫の行くところならどこへでもついて行くと言った。大久保も「どうしてもというなら、やむを得ない。賛成しよう」と言ってくれた。

大久保は、清治の借金のうち、すぐ返さなければならない分を立て替えてくれた。友人たちが他の借金の保証人になった。清治と左衛が那覇港を発ったのは8月下旬のことだった。

那覇港には見送り人のために設けられた長い土手があった。土手の上には大勢の人々が集まっていた。彼らは沖縄の送別の歌を声高らかに、哀愁を漂わせながらうたった。その一群の中には、清治が知る辻遊郭の女性が日傘を振る姿もあった。

註1:中村孝也『野間清治伝』(野間清治伝記編纂会、1944年)より引用。