野間清治が、徳島から才媛を嫁に迎え東京へ戻る日

大衆は神である(17)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

奔放・豪快でありながら、どこか憎めない人柄で、周囲の人々を惹きつけてきた清治。起業までの軌跡を追う第二部では、講談社創立の原点となった雑誌『雄弁』創刊前後を描く。

東京帝大内に開設された臨時教員養成所を修了した清治は、教官に「いちばん俸給のいいところへやってください」と言ってのけ、明治37年(1904)、当時もっとも月給が高かった沖縄県立中学校へ赴任したのだった。

第二章 『雄弁』創刊前夜──野間清治の沖縄時代 ⑸

ご祝儀たくさん募集します

それから2〜3週間後、大久保から「お嫁さんを徳島から連れて立つ」と電報が届いた。清治はしばらくたって、群馬の師範学校時代の先輩3人あてにこんな手紙を書いている。

 

〈拝啓
 小生儀、今般不得已(やむをえず)つまらぬ者と結婚致候(いたしそうろう)
 未(いま)だ顔をみず、未だ性質も家柄何ニも知らず
 明後日入船後始めて分る訳、妙な訳に御座候
 然(しか)し、兎に角、結婚致す次第ニ御座候
 親友のよしみ、是非々々、御祝儀沢山募集方、御周旋奉願候(たてまつりねがいそうろう)
 一生一度之事ニて候
 大至急御骨折奉願候〉

厚かましい願いをユーモアにくるんで相手をその気にさせる、という意味では、見事な手紙である。このころ清治が抱える借金は1000円ほどに達していた。それに式や披露宴の費用も馬鹿にならない。その一部でも友人たちからのカンパで穴埋めしようという目論見だったのだろう。

まだ見ぬ花嫁の名は、服部左衛(はっとり・さえ)といった。三人姉妹の長女である。大久保が徳島の師範学校(男子部と女子部があった)の教頭だったときの教え子で、清治より五つ下の23歳だった。

服部家は旧幕時代、徳島の札差(ふださし。米商人、金融業者)として富裕な商家だったが、維新後に没落し、細々と商いをつづけていた。左衛は漢学を学び、師範学校をトップで卒業した才媛で、大久保から結婚話が持ち込まれたときは徳島の郡部の小学校で教鞭をふるっていた。左衛の頭脳は、のちの講談社の発展に不可欠な要因となるのだが、それはまだ何年も先のことである。

飲んで道楽はするよ

左衛は当初、気乗りがせず、自分で大久保に断わりの手紙を書いた。それでも大久保はあきらめず、左衛の両親を口説いた。中村孝也の『野間清治伝』に左衛の母とみの回顧談がある。
 それによると、とみは左衛を手放す決心をした理由について「(大久保)先生が熱心にお勧めになられたものですから」と答えたうえで、次のような話をしている。

〈先生からは、いろいろ写真を見せて戴きました。難しさうな人だと思つてゐると、先生が、綺麗でせうと仰しやるので、難しさうですとも言はれず、はあ綺麗ですね。私の娘は不縹緻(ぶきりょう)ですが、それで宜いでせうかと申しますと、先生は、それは縁のものだと仰しやつて、勧められたのですね。先生が責任を持つと申されました。(略)太鼓判を捺すといふ訳ですけれども、飲んで道楽はするよ。それは左衛子(左衛)さんの手綱の締めやう一つだとか何とか言つて居られました〉註1

大久保は左衛をしばらく自分の家に置き、見合いをさせたうえで結婚式を挙げさせようと考えていたらしい。ところが、朝武士郡長や本松郡視学の夫人らが清治の借家に入り込み、花嫁が着いたらすぐ結婚式を挙げ、披露宴も開こうというので料理など一切の準備を進めてしまった。清治の気が変わらないうちに、否応なく結婚させてしまおうという作戦である。