いまの政権と民主党政権の、官僚制をめぐる「意外な共通点」

改革された制度はうまく動いているか
牧原 出 プロフィール

政党が壊す官僚制

そもそも理論から見渡せば官僚制は容易には変わらない。

かつて社会学者のマックス・ウェーバーは官僚制による支配の「永続性」を主張した⑴。近代官僚制が、もっとも合理的な支配の形態であり、ある条件の下でどう行動するかという予測が高度に可能である点で、近代社会に適合的であると見たのである。

他方で、とりわけ第2次世界大戦後の日本では、1955年に結成された自民党が長らく与党であり続けた。政権交代が見られない中で、自民党も官僚制と同様の「永続的」支配の主体であるかのようであった。こうして政と官の制度配置が大きな変化を遂げないまま、二重の支配を継続させる中で、政と官のありようが形成されてきた。

ところが、冷戦終結後の1990年代のもろもろの改革、2009年と2012年の政権交代を経て、これまでの理解を超える事態が次々と生じ始めた。

森友学園に対する国有地の不当な値引きによる払い下げ問題、加計学園の獣医学部設置問題では、府省官僚の政権に対する「忖度」が疑惑の対象となり、政権に不利な情報が記載されている可能性のある公文書が廃棄されていた。

こうした前代未聞の出来事は、これらで終わるどころか、今後ますます起こりそうである。制度は変わるどころか動かなくなってきたのである。

 

しかも、グローバル化と情報化が顕著に進むにつれて、私たちは、瞬時に大量の情報を処理しなければならなくなっている。政府とりわけその実質の大部分を占める官僚制の意思決定も変わりつつある。

だがそれが意味するのは、そうした高速かつ大量の意思決定を止められなくなり、かつて以上に適切な改革を進めないと、収拾不能な事態をもたらすかもしれないということである。

見方を変えれば、官僚制をはじめとする制度の永続性はより強まってもいる。政権は交代する可能性を常にはらんでいるが、官僚制の意思決定のスタイルを一変することは、もはや不可能になりつつある⑵。

政治家も官僚もメディアを連日賑わせている(photo by iStock)

そこに出現したのは、政党による官僚制の破壊である。民主党政権による「脱官僚依存」が政策形成を混乱させ、その反省から生まれた第2次以降の安倍政権では、幹部人事を官邸の都合で動かした結果、官邸と省庁幹部とが一体化した反面、官邸の意向を省内に取り次ぐ幹部と、各省の現場とりわけ出先機関との間で亀裂が深まっている。

結果として、メディアで様々に報道されたように、数々の不祥事とそれにまつわる内部からの文書のリークが政権を揺るがした。こうしたリークは政権の体力を弱めるとともに、官僚制自体の機能不全をも生み出している。正常化に着手しないと、新規の政策立案が望めないし、通常の安定的な事務処理も困難になるだろう。

現政権も5年半以上経過してはいるが、地方創生、一億総活躍、人づくり革命など、1年限りで看板が替わるように年々新たな政策を出すことを繰り返しており、長期本格政権として数年先を見越して着実に政策を準備できるほどの政権ではない。

その意味で政権交代後の本格政権とは言えない。必ずしも成熟していない政権が、民主党政権に続き、行政を突き崩しつつある。仮に政権が別の内閣に交代したとしても、官僚制をどう再建するのか、道は険しい。もはや対症療法は困難である。

憲法改正と民主主義

こうした政と官の関係から生じる問題を、政治家と官僚の駆け引きの結果とだけとらえては、ことの本質が見えてこない。そこで『崩れる政治を立て直す』は、両者の関係を支える制度の奥にまで踏み込んで、この問題の発症原因を探る。

政と官が接する場は、内閣を頂点にして、一方は国会と与党へ、他方は省庁と官僚制へと広がる。内閣では、大臣など政と、各省事務次官を頂点とする官とが協力と対立を繰り返す。まずはそこを軸に、政と官との関係を見渡す。

だが、政治家と官僚という組み合わせだけが政と官を規定するわけではない。組織としてみれば、政党が一方にあり、他方に官僚制という官僚集団がある。それぞれ別個の組織の論理で動いている。

またルールとしてみれば、一方の政の側では国会制度、選挙制度があり、他方の官の側では内閣制度と各省の組織の枠を決める制度すなわち省庁制度がある。

これらの基層には理念がある。政の側では政党政治と民主主義を理念としている。官と行政の制度理念を端的に表すのは法の支配であり、それは根本的な法規範である憲法という国家のルールによって規定されている。

したがって、政と官の関係とは、政治家と官僚、政党と官僚制、国会・選挙制度と内閣・省庁制度といった様々な層を区別しながら、最深部では政党政治・民主主義と立憲主義・法の支配という理念の相互作用として表れる。