もうすぐ総裁選だが……(photo by iStock)

いまの政権と民主党政権の、官僚制をめぐる「意外な共通点」

改革された制度はうまく動いているか

政治と行政の崩落は、国民を失意のどん底に陥れている。政治家や官僚の首をすげ替えても、事態は好転しそうもない。それは、制度の動かし方も考えずに制度改革をしてきた〝つけ〟ではないのか――気鋭の政治学者・牧原出氏が新刊『崩れる政治を立て直すー21世紀の日本行政改革論』で考えたこととは?

改革の難しさ

「経済一流、政治三流」と言われたのは、日本の経済力が充実していた一九八〇年代のことであった。

首相経験者だった田中角栄が逮捕されたロッキード事件をはじめ、汚職にまみれた政治家への低い評価を補うのは、日本企業の輝かしいパフォーマンスであった。それはまた、ともすれば個別利害に引きずり回される政治を、ぎりぎりのところで合理的な政策に落としこむ官僚への信頼とも結びついていた。

 

こうした「政治三流」を変えようとした改革が、リクルート事件で首相、閣僚、さらには企業経営者やいくつかの省の幹部が疑惑の対象となったあとに始まる。

選挙制度改革と政治資金改革を柱とする1994年の政治改革によって、腐敗とは無縁で政策形成能力の高い政治家が登場するとの期待が生じた。引き続き起こった官僚不祥事から、官僚の既得権への不満が巻き起こった。いよいよ政治への期待は増していく。

その頂点が民主党政権であったが、そこでの「政治主導」は惨憺たる結果に終わった。

その反省から第2次以降の安倍晋三政権は、官邸を中心に自由民主党(以下自民党と略す)も官僚も押さえつけたように見えた。

だが、防衛省で廃棄したと発表されていた陸上自衛隊の南スーダン・イラク派遣時の日報が省内で保管されていた「日報問題」、首相への「忖度」が文部科学省・財務省内の反発となって表れた森友・加計学園問題など、今度は現場の官僚の反抗とサボタージュにあっているかのようだ。

そして今、再び政と官の新しい仕切り直しが始まろうとしている。それは歴史を振り返れば、「経済一流、政治三流」の時代に自民党長期政権下で形成された関係のさらなる再編である。

国会では政と官の攻防戦が(photo by iStock)

制度を廃止すればすむわけではない

ところが政と官の関係は特定の制度を整えれば確定するわけではなく、制度のセットの運用を積み重ねる中で徐々に慣行が定着し、誰もが当然と疑わないルールになっていく。

それは、2001年1月に省庁再編が行われ、建設省、運輸省、国土庁、北海道開発庁が統合され国土交通省になったり、文部省と科学技術庁が統合されて文部科学省になったりと、省の組織が一変しても政治家と官僚の関係が変わったわけではないことからも明らかである。

以後の成り行きの中で、政と官の関係は徐々に変わっていった。民主党政権であれ、第2次以降の安倍晋三政権であれ、当初の意図通りには制度を変え、慣行を一変したわけではない。制度が表面上変わっても、関係者の行動まで一気に変わるわけではない。

いつ頃からか、こうした改革を抱え込むことが重苦しくなってきたように見える。改革が思わぬ結果を生み、コストばかりがかかったり、現場が過重な負担にあえいだり、という事態が目立つようになってはいないだろうか。

政治改革の柱であった小選挙区比例代表並立制への選挙制度改革により、政治家は短期的な発想しかできなくなり、小粒になったと指摘されて久しい。その一つの帰結が、惨憺たる結果となった民主党政権や第2次以降の安倍政権ではないか。省庁再編の紆余曲折の結果も、現在のような公文書の改竄や、官邸官僚の専横を招いているかのようである。

改革案を作るときに、制度が動き出したらどうなるか、という問いに考えが及ばなかったのではないか──それが『崩れる政治を立て直す』の根元にある考えである。

制度の動かし方も考えずに、制度改革をした〝つけ〟が回っている。かといって、今となっては制度を廃止すればすむわけではなさそうだ。面倒な制度もすでに他の制度との間で固く結び付き、制度のセットに組み込まれているとしたら、一つの制度を変えるにしても、その動き方の全体を予想しておかないと、さらに面倒な事態になりはしないだろうか。

どうやら、21世紀の日本ひいては世界は、20世紀末の諸改革を点検しながら、その動き方を十分観察した上で、必要な改革を再度続けなければならなくなりそうである。戦争や破局的な経済危機があれば、ゼロから制度を作り直すことになるだろう。そうではないとすれば、今の制度とつきあいつつ変えていくしかない。