世界に広がる「“弱者の大義”に憤る人々」とどう向き合うか

侮辱の応酬を超えて
望月 優大 プロフィール

被害者性の競合と奪い合い

この映画が与える教訓は2つある。

1つは、人間の行動が理性だけでなく刹那的な感情によっても支配されているということ。

他者の暴力的な振る舞いや扇情的な言葉など、自らの「尊厳」が傷つけられるような事態に直面した人間は、理性の支配下では発さない言葉を発したり、落ち着いていれば振るわない暴力を振るってしまうことがある。

このことは、胸に手を当ててみれば誰もが自分の経験を通じて理解できるだろう。

もう1つは、こうした個人個人の「尊厳」が、「民族」や「国家」、「宗教」、あるいはその他様々の「社会的に想像・構築されるアイデンティティ(自己同一性)」と骨がらみになっているということ。

2人の私的ないざこざが国全体を巻き込む大炎上へと発展し得たのは、そのいざこざが「民族」や「歴史」に関わるものだったからだ。

「自己」同一性の想像と構築のプロセスは、常にすでにその「自己」と対決する「他者」との関係性の中で進行する。自己とは常に「攻撃される自己」であり、アイデンティティとはその本性上防衛的なものだ。

トニーと妻のシリーン

誰も自分のことを「加害者」であるなどとは思っていない。真剣に、本当に、「被害者」だと思っているのだ。

そして、たったの1ミリも被害者性のない人間など1人もいないのであって、だからこそそれぞれが見ている記憶や歴史から「被害者性」の物語を備給することは誰にでも可能なのである。

「“弱者の大義”への憤り」は被害者性の競合と奪い合いをベースにし、感情的な罵り合いによってエスカレートする。防衛的な振る舞いはいつの間にか攻撃へと転化し、その攻撃に対する防衛は再び攻撃へと転化するだろう。

 

2人の個人の人間性

トニーも、ヤーセルも、それぞれの妻から「自分のプライドのために意地を張るな」という趣旨の言葉でたしなめられる。しかし、ヤーセルは謝れずにトニーを殴ってしまい、トニーは我慢ができずに訴訟へと突っ走ってしまう。

あれよあれよと言う間に内戦じみた社会的緊張の中心人物となってしまった彼らの日常はそれぞれメチャクチャになってしまう。仕事も家庭もギスギスし、身の安全すら脅かされる。

2人は異なる性格の持ち主であるとは言え、自分なりのポリシーや正義、プライドを持っている。彼らは、対立に向かって一直線に進むのではなく、あらゆる場面で和解の可能性を模索する小さな素振りを見せている。彼らやその家族はあくまでも普通の人間なのだ。

しかし、メディアに彼らのプライベートが映ることはない。彼らに固有の人間性は捨象され、2人の裁判はステレオタイプの対立構図にはめ込まれて、和解不可能な社会的断絶の象徴のように扱われてしまう。そして、裁判所の外での両陣営による暴動はどんどん加速していく。

ヤーセルと妻のマナール

8月前半の来日時にドゥエイリ監督に話を聞いた。

彼は慎重に言葉を選びながら、そして自分の言葉が何らかの政治的含意(いずれかの政治的陣営の支持につながるような含意)を帯びないように幾重にも注意しながら、話を聞かせてくれた。

特に私の印象に強く残ったのは次の言葉だった。

「2人はよく似ているんだ。トニーはヤーセルに似ているんだよ。彼らは態度や生活、背景、そして彼らが高潔で筋を通す(integrity)ということにおいてとてもよく似ている。彼らは真正(decent)であり、内面においても行動においても崇高な(noble)人間なんだよ」

固定化した対立の象徴のようにして扱われる2人の個人。しかし、彼らは個人としての人間性において深く通じ合うものを持っている。

真正で、崇高で、筋を通す。裁判の過程の中で、ときには法定外のやりとりを通じて、彼らはその相違点だけでなく、互いに共通するものを感じ取っていく。

所属する民族や政治的な信条が変化するということではない。しかし、それにもかかわらず、2人をネタに内戦化する社会の中で、彼らだけがむしろ互いの共通点を見出していくのだ。それは他者理解の過程でもあり、同時に自己を理解する過程でもあるだろう。