世界に広がる「“弱者の大義”に憤る人々」とどう向き合うか

侮辱の応酬を超えて
望月 優大 プロフィール

一つの「侮辱」から「大炎上」が始まる

こうした直近の状況と深くシンクロする映画がつい先日公開された。

レバノン人監督ジアド・ドゥエイリによる『The Insult(“侮辱”の意)』(邦題「判決、ふたつの希望」)である。

アカデミー賞外国語映画賞にレバノン映画として初めてノミネートされ、主演の1人であるパレスチナ人俳優のカメル・エル=バシャがベネチア国際映画祭・最優秀男優賞にも輝いたこの映画は、私たちの時代の困難を反映した極めて重要な傑作である。

映画の下地を成す構図はケムニッツでの状況にとてもよく似ている。

 

レバノンには、近隣のイスラエル・パレスチナ紛争で発生した45万人ものパレスチナ難民が存在する。彼らは無国籍状態でレバノン国内にある12の難民キャンプに分散して暮らしており、その中にはキャンプの外で不法就労についている者たちも多い(社会も基本的にそのことを黙認し受け入れている)。

レバノンの人々にはパレスチナ難民に対する憐れみや共感がある。他方、彼らを受け入れるために多くの土地が占拠された、彼らを受け入れたがためにイスラエルとの紛争に巻き込まれてしまった、そんな被害者感情もある。大量の難民を受け入れた社会が綺麗事抜きに経験する極めて両義的な感覚だろう。

隣国ミャンマーから大量のロヒンギャ難民を受け入れているバングラデシュを取材した際にも同じことを感じた(参照「私が生まれた地球には、私の属する場所がない。ロヒンギャ青年の証言」)。

トニー(左:キリスト教徒のレバノン人)とヤーセル(右:レバノンに住むパレスチナ難民)

こうした歴史・社会的な文脈を背景に、この映画では、レバノンに暮らすパレスチナ難民の一人であるヤーセルと、レバノン人でキリスト教徒のトニーという他人同士の2人の間で些細ないざこざが発生する。

小さな争いはエスカレートし、その後の「謝れ」「謝りたくない」のやり取りの中で、トニーはヤーセルがパレスチナ難民であることに関する強い侮辱(insult)の言葉を浴びせてしまう。そして、怒りに我を忘れたヤーセルは、トニーの腹を思い切り殴り、彼の肋骨を折ってしまうのだった(その侮辱が具体的にどんな“言葉”であったかははぜひ映画を観て確かめてほしい)。

肋骨を折られ激昂したトニーは、ヤーセルを裁判で訴える。そして、このいかにも私的で小さな裁判が、法廷でのやり取りとそのメディアでの報道を通じて、異なる民族・宗教間の争い、レバノン国民とパレスチナ難民との争いとして単純化され、レバノン社会全体を揺るがす一大事へと発展してしまうのだ。