江戸時代のすし屋は屋台が主流。冷蔵技術がなかったから、ネタは江戸湾沿岸で穫れる魚介に限られていた
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江戸時代、握りずしブームを支えたのは「あの酢の会社」だった

酒席で絶対ウケけるおもしろ雑学 酢編
「SUSHI(すし)」といえば、今や世界の共通語。日本を訪れた外国人観光客は、築地の有名すし店や回転ずしチェーンに群がり、世界の主要都市には必ずすし店が存在し、日本人が知る「握りずし」とは異なる独自の進化を遂げている。
さて、その「握りずし」が誕生したのは、今から約200年前の江戸下町。当時の食習慣では、飯は朝晩の2回。そこに屋台の形態で登場した「握りずし」は、昼間、空腹を抱えて働いていた肉体労働者(大工や物売りなど)の間で爆発的な人気を博し、あっという間に、一町内に一軒の「握りずし」屋があるという大ブームとなった。
ナビゲーターの海仁さんによれば、江戸のすしブームの陰には、「握りずし」にはかかせない「酢」を安価で提供した会社の存在がかかせなかったそうで……。

「赤酢」が江戸の食生活に革命を起こした

今でこそ、すしといえば鮮魚を使う「握りずし」を指すけれど、すしの原点は魚の保存食だった。琵琶湖の「ふなずし」のように、最初は塩漬けにした魚と米を乳酸発酵させる「なれずし」で、紀元前に東南アジアで生まれたと言われている。

 

中国を経て、すしが日本に入ってきたのは平安時代。やがて作る時間が短くなるとともに、保存から酸味を生かす味付けに主眼が移り、江戸のはじめにはお酢を加えて短時間でつくる「早ずし」が登場。しまいには鮮魚を使う江戸前の「握りずし」に進化した。

それがちょうど文化文政の頃。『東海道中膝栗毛』や『南総里見八犬伝』がベストセラーとなり、歌舞伎が人気を博し、百花繚乱のごとく庶民文化が栄えた時代です。

で、「握りずし」は、すぐに爆発的なブームを迎えることになるのだが、その陰に、「握りずし」にマッチした安くて美味しいお酢が存在していた。現在の愛知県半田市にある元酒蔵が作り、江戸に運んだ「山吹」である。

その元酒蔵こそが、現在、日本一の酢メーカーとして君臨する、あのミツカンなのだ。そう、今回はミツカンの博物館で、江戸時代の食生活に革命を起こした酢と老舗の物語を追いかけてみたい。

そもそも「山吹」という名前は、酢メシに使ったときに山吹色になったことにちなむという。また、シャリがやや赤みがかることから「赤酢」と呼ばれることもある。博物館の展示と解説によれば、「握りずしは現在のハンバーガーの様に、手軽で安価な食べ物として急速に広がり、江戸町内に1軒はここに復元してある屋台店がある様になりました」とのこと。

仕込みさえしておけば早く作れる握りずしは、江戸のファストフードだったのか。

復元された屋台の展示の上には、当時の握りずしの再現見本が並んでいた。どれもおにぎりぐらい大きい! ボリュームは今の倍から3倍はある。少食胃弱のぼくは1個でお腹いっぱいになりそうだ。味付けもいまと異なり、酢は半分で塩は3倍とのこと。

江戸時代の握りずしの再現サンプル。シャリの大きさは俵型のおにぎり並み

ネタは「白身、こはだ、赤貝等でマグロは余り喜ばれなかった。まして、トロは捨てられていたようで、なんとまあ、もったいない」

江戸時代のネタは、鮮魚といっても酢締めだったりヅケだったりして、どれもいわゆる「仕事」がされていた。器もいらないし、量が多くて味が濃く“町に1軒”じゃホントにハンバーガーみたいだ。味なことやる! ……て若い人は知らないか。

さらに視野を広げれば、文化文政時代はすしに限らず、そば、うどん、うなぎなどの外食産業全体が江戸で急速に発展した時期だったという。その勢いは幕末まで衰えず、江戸の町では「蕎麦屋・居酒屋なんどを始め、名代の鮓(すし)や・てんぷら屋など数へる時は、一町内に半分の余は喰物屋なり」(『皇都午睡〈みやこのひるね〉』西沢一鳳)という状況に。握りずしはブームの筆頭で、外食のメニューにしっかり定着し、ミツカンの「山吹」も順調に売り上げを伸ばしたという。

再現された江戸時代のすし屋の屋台