「紙と小説に未来はあるのか」塩田武士と武田砂鉄が語りつくした

『歪んだ波紋』特別対談
塩田 武士, 武田 砂鉄 プロフィール

一個一個、怒っていかなければ

塩田: 記者ハンドブックからずれたことを書くと必ず訂正、赤を入れる。それがデスクの仕事なんですよね。その基本的な姿勢は、自らが一段下りていく。「わかりやすく伝える」じゃなくて、「わからないに決まっている」という固定化された概念がそうさせている。すべて雛形の踏襲で文章を安定させる文化なんです。物書きというよりは、要約してわかりやすくするところに重きが置かれている。

武田: 『日本の気配』でしつこく書きましたが、政治家の言葉が、国民を一段下に見ているものばかりになった。問題を起こしたら、ひとまず「誤解を招いたとしたらお詫びする」と言ってみる。「頭の悪いお前たちが理解できないならお詫びしますよ」との姿勢が、自分たちの暴言から逃れる最たる手段になっている。

それを伝える新聞も「誤解を招いたらお詫びしますって言ってます」と書いてしまう。この繰り返しです。みなさん、こんなに馬鹿にされ続けてますよ、どうして怒らないんですか、というのが今回の本に共通するテーマです。

塩田: とりあえずその場をしのげる。ごまかし続けられたら飽きてくるし、聞かされ続けることの体力の消耗もぜんぶ頭に入っていて、その問題をうやむやにできる。あえて持久戦にもって行き、後で議事録をテープで起こしてみたら結局何も言ってない。安倍政権にはとくにそういうことを感じますね。

武田: 彼らは、「何も言わない」ってことをテクニカルにやり続けています。実際にうまくいっているという実感があるのでしょう。

塩田: それを支持する一定の層もいるし、言葉を扱う職業で恥ずかしげもなく支持する人もいる。表現の自由とか基本的なことはありますけど、本当に残念でいやな気持ちになりますね。

武田: 野党にしろメディアにしろ、「なんでこいつら批判ばっかりしてるんだ」みたいな言われ方をしますね。「それがオレたちの仕事だよっ!」っていう(笑)。そこから説明しなければいけなくなっている。

塩田: 解決していないから言い続けてるのに。

武田: 権力を監視するのが、メディアの役割であり、野党の役割です。

塩田: そんな基本的なことを一から言うのは絶望的です。ジャーナリズムというのは真実のためにあって、その真実は市民のためにある。その原則というものが抜けちゃっている。ジャーナリズムというと難しく聞こえるかもしれないけど、専門家、記者だけじゃなくて誰もが情報発信をする時代だからこそ、ひとりひとりがジャーナリズムの基本を、簡単にでも心にとどめておくだけで全然違うと思う。『歪んだ波紋』にはそういう意図もありました。

それだけで、ワンクリックやワンタップでわけのわからない情報を拡散させるのを止めることができるかもしれない。情報を発信できる、公にすることの責任は、いまひとりひとりに問われるべきだと思います。

 

武田: 帯に「騙されるな。真実を、疑え。」とありますが、今、「真実」という言葉は安っぽくなりつつある。書店に行けば「従軍慰安婦の真実」「韓国の愚かな真実」といった類いの書籍や雑誌があふれていて、この言葉を使うことにためらいが起きるほど、虐げられた言葉でもありますね。

塩田: そういう人たちは、冷静に考えたらあんたらもおかしいと思ってるやろということを絶対に認めない。

──それもやっぱりジャーナリズムないしメディアの力が弱体化しているがゆえに、一般的にはあまり伝わっていない感じもします。おふたりはジャーナリズムおよびメディアの危機感に触れていますが、その危機感の最大の要因はどこにあると思われますか。

塩田: 受け手が、ニュースの編集・発信ができるという革命的なことが可能になったことだと思います。僕は、ニュースは「正しく人の役に立つ」を前提に記者をやっていました。それがいま、ニュースが「おもしろく、自分の役に立つ」というかたちに変換できるようになり、それが拡散されていく。受け手はその情報に対して指をくわえて見ている。

たとえば巨大なIT企業って情報の吸い上げ方が尋常じゃない。音声認識が発達して、声だけで健康状態を把握でき、そこにどんどん商品を売りつけてくるみたいな、そこまで進んでいる。そうやってグーグルとか数社が世界全体の個人情報を握ってしまうなかで、「その企業のため」にニュースを創るようなことも考えられるかもしれないと思って、『歪んだ波紋』の最終話を書きました。

情報の受発信が、従来通りに波紋を描かなくなっている。ニュースが、真実とか事実とかいう次元じゃなくて、創作できるところに怖さを感じています。

武田: 『歪んだ波紋』ではアルゴリズムの話も出てきますが、その当人にとって、「快・不快」でいうと、「快」だけのニュースを提供しますという仕組みが整ってきていますね。以前、友人から「オマエの記事、ヤフーのトップページのスクロールしたところに出てたよ、すげえな」ってメールがきたんですけど、それ多分、普段、お前さんが読んでくれてるからそこに上がってくる。でも、それにすら気づいていない。

こういった流れが強化されると、「どうして、この媒体は、自分の望まないニュースを提出してくるんだ」となりかねない。ニュースを読む側がソファにふんぞり返り、「オレを気持ちよくさせてくれよ」「気持ちよくならないニュースはいらないよ」となる。「かしこまりました。興味をお持ちいただけるものだけをご提供に参ります」というのが、これから特化すべき取り組みになっている。そのことに対してあまりにも警戒心がない。

最近、つくづく、便利がファシズムと化していないか、と感じます。『日本の気配』に書いたように、マイナンバーって、どう考えてもナショナルナンバーですよね。

「マイ」ではない。そんなの入り口で気づこうよ、って感じなんだけど、みんな、「おいおい、便利になるらしいぜ」って言いながら、面倒臭い提出書類をいそいそと書いている。えっ、今、もう早速不便じゃんって(笑)。大きな企業ともなれば、委託している会社に書類を提出せよ、なんて言われる。知りもしない人になんで個人情報をバラまかなきゃいけないのか。というわけで自分は一切出していません。

管理する側の便利のために提供したくない。そういうものに一個一個怒っていかないといけない。自分の快のためにニュースを提供してくれるのも同様で、自分の思考の幅を他者に管理され、制約されてしまう。当然、人間の頭を貧相にさせる。自分の頭の中にないものを入れる態勢を整えておくことが、情報と接するってことだと思います。