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「学問して食べていく」とはどういうことか。ある賢者の根本的な問い

マックス・ウェーバーが研究者に告ぐ

「サイコロ賭博」でポストが決まる

言葉は生き物である。日本語も時代とともに変化していく。

将来、研究者を志望する大学生を相手に1917年11月7日にドイツのミュンヘンでマックス・ウェーバーが行った講演については、従来、「職業としての学問」という邦訳名がつけられていた。

これを成蹊大学の野口雅弘教授は「仕事としての学問」と改題し、21世紀に通用する日本語に翻訳したのが『仕事としての学問 仕事としての政治』だ。正確かつわかりやすい優れた業績である。

ウェーバーはこの講演の主題に関してこう述べる。

〈みなさんからのご要望をいただき、「仕事としての学問」について話をさせていただきます。(中略)

ここでの問いは、ことばの物質的な〔「生計を立てる」という〕意味で考えたとき、学問が仕事として成り立つのは、どのようにしてか、という問いです。実際のところ、今日この問いが意味するのは、基本的にこうなります。

学業を修了した学生が大学での研究生活に入って仕事として学問をする決意をしたとすると、その状況はどのようなものになるか、です〉

まず、大学の人事に関してウェーバーは「サイコロ賭博」のようだと身も蓋もない見方を示す。

〈大学でのキャリアに特有の問題は残っており、しかも本質的なところで、それはさらに大きくなっています。私講師がいつか正規の教授や、ましてや研究所の管理職のポストに就くことができるかどうか。これはまったくサイコロ賭博のような話です。

助手であれば、なおさらです。たしかに、偶然だけが支配しているわけではありません。しかし、尋常ではないレベルで偶然が支配しています〉

人事がサイコロ賭博のようになるのは、人間的要素を加味すると当然の現象であるとウェーバーは考える。

〈他のどのセレクションでもそうですが、この場合にも人間的なものが関わってくる。それは当然のことです。しかし、優秀さそれ自体ではなく、サイコロ賭博がこんなにも大きな役割を果たすというのは、人間的なものだけの問題ではないし、けっして主として人間的なものの問題というわけでもありません。

大学では多くの凡庸な人たちが偉くなっている。こうした状況があるにはある。しかし、この状況を学部や〔文部〕省の個人的なだめさ加減のせいにするとすれば、それは正しくないでしょう。

むしろ、問題は人間の共同作業の法則にこそあります。特にいくつかの機関、この場合には〔新規に採用する教授を〕推薦する大学の学部と〔教授を任命する文部〕省が共同作業をするときの法則です〉