野間清治が、沖縄で異例の出世を遂げた「裏事情」

大衆は神である(16)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

奔放・豪快でありながら、どこか憎めない人柄で、周囲の人々を惹きつけてきた清治。起業までの軌跡を追う第二部では、講談社創立の原点となった雑誌『雄弁』創刊前後を描く。

東京帝大内に開設された臨時教員養成所を修了した清治は、教官に「いちばん俸給のいいところへやってください」と言ってのけ、明治37年(1904)、当時もっとも月給が高かった沖縄県立中学校へ赴任したのだった。

「明治の琉球王」の時代

沖縄3年目の明治39年(1906)10月、清治は県庁勤務を命じられた。まず、人事上の規則に従って、県属(県の事務を取り扱う役人)になり、半年後に県視学(しがく)(学事の視察・教育指導にあたる教育行政官)に昇格した。異例の抜擢人事である。

清治が県視学に選ばれたのには、それなりの訳がある。当時の沖縄では明治25年(1892)以来、約15年にわたって奈良原繁(ならはら・しげる)県政がつづいていた。

知事の奈良原は文久2年(1862)の寺田屋騒動(島津久光による薩摩藩尊攘派志士の弾圧事件)の斬り込み役をつとめたことで知られる元薩摩藩士である。

 

奈良原は知事就任以来、県官界・教育界の主要ポストを鹿児島閥を中心とした本土出身者で固め、急速な本土化政策を進めた。とくに同化教育・土地整理・港湾整備の三大事業を重点に沖縄開発を専制的に推進し、これに反対する謝花昇(じゃばな・のぼる。沖縄における民権運動の中心的指導者)らの運動を弾圧して「明治の琉球王」と呼ばれた1

人たらし

清治は、その奈良原側近のひとり、県視学の秦蔵吉(はた・くらきち。福岡県出身。のちに沖縄県立高等女学校校長)と那覇の高級料亭「いろは楼」でたまたま出会い、親しくなった。清治の回想。

〈ある時、ひとりで(いろは楼に)行っておると、隣の部屋でやはりお客があるとみえて唄ったりしている。どこのお客か知らないが、当時はまるで沖縄県全体を自分の家ぐらいに思っておったのだから、いきなり裸のまま隣の部屋に飛び込んでいった。私はどこへ行ってもすべての人が懐かしいたちであります。

(略)向こうも洒々落々(しゃしゃらくらく)の人間で裸で二人ビールを飲んでおった。(略)秦君は私を知っておって、「君は野間君だろう」「そうだ、君は?」「僕は秦だ」「この君は誰だ?」「橋口という宮古の島司(とうし。島の管轄官)だ。というわけで「さ、一緒に飲もう」というので、また愉快になって共に飲んだ。

そんな風ですから朝武士(あさぶし)[干城(かんじよう)]という中頭郡(なかがみぐん、沖縄本島中部の郡)の郡長なども私をかわいがる。県庁の人も私を段々知ってくれる……〉

こうして清治の県庁人脈が広がっていった。その中心は、奈良原側近の秦であり、朝武士であり、県庁の学務課の面々だった。彼らは若い清治をかわいがった。県視学のポストに欠員ができたとき、清治を後釜に呼ぼうという声が彼らから起きたのは、ある意味で自然な流れだった。知事の奈良原も「あの男なら」と言って、清治の登用に同意したという。