「そのくせ、ろくな考えは持ち合わせちゃいない。みんな本から借りてきた考えばかりです。それじゃ、わしんとこの商売にゃならない」
──アガサ・クリスティー『葬儀を終えて』加島祥造訳、早川書房クリスティー文庫、2003(原著1953), p.244
ここのところ、アガサ・クリスティーの名探偵ポワロものを、出版年順に読んでいる。
子供の頃にホームズや明智小五郎にはひととおりはまったのだが、その後、クリスティーはあまり読まずに今に至っていた。
だけど、世界中で聖書の次に売れているとも言われる作家。いわば人類の宝だ。それを読まずにいるのはなんとなくよろしくないような気がして、三谷幸喜が『オリエント急行殺人事件』と『アクロイド殺し』を原作とするテレビドラマの脚本を書いたのを期に、一念発起して《クリスティー、少なくともポワロ全部読破プロジェクト》を敢行したのである。
さて、ポワロといえば、デイヴィッド・スーシェが主演したイギリス制作のテレビドラマシリーズがよく知られている。1989年から始まり、2013年まで24年をかけて、原作をほぼすべて映像化するという偉業を達成した。日本ではNHKが『名探偵ポワロ』の邦題で放映していた。
ポワロを演じたスーシェは、この役を始めるに際してクリスティーの原作をすべて読み直し、ポワロのしゃべり方から細かいクセに至るまで、93個もの特徴をリストに書き出したそうだ。そして常にこのリストを肌身離さず持ち歩いていた。
いわばポワロになりきったのである。
卵形の頭、薄くなった頭髪、立派な口ひげ、いつもぴかぴかのエナメル靴に帽子をかぶり、ステッキを持ってちょこちょこと歩く。ときどきフランス語が交じるベルギー訛りの英語。大げさでわざとらしい作り笑いの笑顔。潔癖症。
ポワロといえばスーシェのこのイメージが真っ先に浮かぶ人も少なくないのではないか。
ポワロが憑依したようなスーシェの名演技は、インターネットで見ることができる(2018年8月2日現在、すべての作品がU-Nextで視聴可能)。こちらも並行して古い順に見ているのだが、ふと気がつけば、ぼくの頭の中でのポワロは、もうすっかり、このデイヴィッド・スーシェになってしまっている。
スーシェに、いや、スーシェの演じるポワロに、ハックされてしまった。
だが、早川書房クリスティー文庫の方は、このようなイメージとはおよそ異なる文体でポワロの台詞が書かれていることが少なくない。
「〜してもいいかね?」とか、「いや、あなた、それは違うのだ」とか、スーシェ版ポワロならあり得ないしゃべり方だ。
こういう箇所に出会うたびに、ぼくは頭の中でスーシェ版に変換しながら読んでいく。「〜してもいいですね、ネスパ?」とか「あ、モナミ、ノンノンノン」とか。
映像で作られた先入観が活字の世界を侵食していく。浸食されているのは、活字の世界なのか、活字をもとに作りだしたぼくの脳の中の世界なのか。
いや待て。テレビドラマのスーシェのイメージだって、ぼくの脳の中に形成されているものだ。要するに脳内イメージAが脳内イメージBと拮抗しているというだけの話ではないか?
いやいや待て待て。そんなに簡単に、「だけ」とか言ってしまっていいのか?