「お客様は神様」ではありません

たねや社長の新しい「三方よし」とは
山本 昌仁 プロフィール

人間と人間の関係を築く

ラコリーナにある本社は建築家・藤森照信氏。手前の田んぼに立つのが筆者

ラコリーナの本社棟を作るにあたっては、アメリカでさまざまなオフィスを見学しました。グーグル、フェイスブック、アマゾン、ワーナー、ピクサー、ディズニー……。グーグル本社にはビーチバレーコートもボウリング場も子供が遊べる公園もあります。アマゾン本社はまるで植物園のようです。そこにいるだけでワクワクするし、創造力が溢れてくる。

ラコリーナの本社には遊び道具があったり、不思議なオブジェが並んでいたり、入口にブランコがあったり、無駄なものがいっぱい置いてあります。若手作家の造形作品とか、芸術学校の生徒の卒業制作とか、気に入ったものがあれば並べます。スタッフの目を肥やしたい。数字ばかり眺めていても、何も生まれませんから。

こうした遊び心は、アメリカのオフィスから学んだものです。それまで愛知川工場にあった本社には、笑ったら怒られるような雰囲気があった。それを「笑わなければ怒られるような場所」に変えたかった。

ラ コリーナ近江八幡にあるたねやグループ本社

アメリカのオフィス視察でもうひとつ感じたのは、創造力さえあれば、どこからでも世界へ発信していけるのだということ。グーグル本社はサンフランシスコ、アマゾン本社はシアトルにあります。ニューヨークを経由して情報発信しているわけではないことを、あらためて印象づけられた。

私たち日本人はこれまで、どうしても東京を経由して情報発信するしか道はないように思い込んでいたと思うのです。近江八幡から直接、世界へ発信することは十分可能なんだと確信を深めました。

 

向こうのオフィスで印象に残ったのは、現地の住民の方々と、社員との垣根が非常に低いことです。例えばアマゾン本社には有名レストランがたくさん入っていて、地元の方も利用されます。社員と地元の人たちが、当たり前のように隣に座り、会話を交わしながら食事を楽しんでいる。

買い手と売り手という関係ではありません。人間と人間として会話している。これも一種の「世間よし」と言えるでしょう。地元の方とフランクに付き合える環境を整えることが非常に大事だなあと感じました。

まあ、うちは食品を扱う会社だけに、さすがに「どこでも入ってください」と言うわけにはいきません。衛生の問題がありますから。だから、逆にスタッフにオフィスの外へ出て、お客様と会話しろと言っています。

なるべく一人の人間として接してもらえるよう、制服をなくしました。こちらが普段着でいるほうがお客様は話しかけやすい。スーツを着ている相手には声をかけにくいけれども、農園のスタッフみたいに服が泥だらけだったり、長靴を履いているような人間には話しかけやすいようです。

お客様は、そこで働く人間に対しても興味をもたれる。だから自分の仕事を、自分の言葉で説明する。非常に難しいことですが、最初は訥々とでもいい。一人の人間と、一人の人間という関係を築くことに意味があるのです。自分の頭で考える力、自分の言葉で語る力も磨かれます。

もちろん、こういう新商品を作るべきだとか、いまの販売方法をこう変えるべきだ、といったヒントも得られます。

かつて、本社の人間は黒子に徹しろと言われていました。でも、ラコリーナに本社を置く意味があるとしたら、これだと思うのです。

おせち料理は近江商人が作った

江戸時代には、実は「近江商人」という呼び方はありませんでした。「近江の商人」あるいは「江州商人」と呼ぶのが一般的だったと思います。滋賀県はいまでも米どころとして有名ですが、父の時代は「江州米」と呼ばれていた。「近江米」とすら呼ばれていなかったのです。

現代人は「近江商人」とひとくくりにするので、まるでひとつのグループだったかのように誤解されがちです。しかし、その実態は、「近江からやってきた、さまざまな商人たち」だった。江戸時代の人たちが「近江の商人」という言葉を使うとき、そんなイメージでとらえていたことを忘れてはいけません。

一口に近江商人といっても、いろんなグループに分かれており、出身地も、活躍した場所や時代もさまざまです。おおざっぱにいえば、琵琶湖西岸の高島商人、近江八幡を中心とした八幡商人、日野を中心とした日野商人、五個荘などを中心とした湖東商人に分かれます。

他国へ運んだ物産もさまざまで、高島商人なら綿縮、八幡商人なら畳表と蚊帳、日野商人なら塗椀、湖東商人なら麻布。こうした近江の特産品を運んで、帰りに現地の物産を持ち帰る。行きも帰りも荷物を運ぶので「のこぎり商い」と言われました。
なかでも八幡商人と日野商人の勢いは強く、「八幡の大店、日野の千両店」とならび称されました。八幡商人は江戸の町が開いた頃から、日本橋に大きな店をかまえた。一方、日野商人は千両もたまれば、すぐに次の店を出す。小さな店のネットワークを作っていくのが特徴です。

八幡商人にはベトナムまで交易に出かけたり、蝦夷地に交易に出かけたりする人もいました。蝦夷地・松前における交易の九割は近江商人が仕切っていたそうですが、その中心にいたのが八幡商人なのです。

昆布巻き、新巻鮭、数の子、棒鱈、身欠きニシン……。いまやおせち料理で当たり前のように使われていますが、八幡商人が蝦夷地から持ち帰るまでは、そんなものは存在しませんでした。冷凍技術のない時代ですから、乾燥させたり、塩漬けにしたり、保存方法を工夫した。こうした食べ物は八幡商人の発明品なのです。

漁場の開発や漁具の改良もおこなったので、蝦夷地の漁業は盛んになった。特にニシンは肥料にもなるので、全国の農地で買い求められました。

当時の蝦夷地では物資が乏しく、米は作れませんから、八幡商人は米や古着といった日用品を運び込みました。そこで必要とされるものを商う。そして、現地の特産品を持ち帰るわけですが、蝦夷地のようにまだ産業化が進んでいない場合は、自ら産業を育てたのです。

いま現在、北海道に「近江商人」なる人は住んでいません。しかし、こうした名産品は残り、北海道名物に育っています。私はこれこそ典型的な近江商人道だと思っています。地場産業を育て、その地域を活性化する。自分が儲けることだけを考えない。現地の人に何かを残そうとするし、自分の出身地にも還元しようとする。

「近江泥棒」とか「近江商人の通ったあとはペンペン草も生えない」なんて批判的な言葉も耳にしますが、近江商人の大半は人をだますような商売をしていないはずです。なぜなら、そんな商売をすれば事業が長続きしないからです。薄利多売でやる以上、長期的な取引を前提にしなければ利益が出ません。自分が豊かになると同時に相手も豊かになるのでなければ、長い取引が成立しないのです。

父(たねやの先代社長・山本徳次氏)からもよく「八幡商人が天井のない蚊帳を売ったとか言うけど、そんなアホなことするはずないやろ。商人ゆうのは、そんな短いスパンでものを考えんのや」と聞かされました。私もまったく同感です。

見知らぬ土地に行くのですから、信用など何もない。ならば、その家の手伝いをしたり、何か問題を抱えていたら手助けする。まずは自分を信用してもらうことからのスタートです。商品を売って儲けるのは、もっともっと先の話。彼らには「先義後利」しか選択肢はなかったのです。