パリで子供と遊ぶ、伊号第八潜水艦の乗組員と呂五百一潜の回航員

ヒトラーの要望で日仏を往復した潜水艦乗組員を待ち受けた過酷な運命

2ヵ月間無寄港、海底6万3千キロの旅
第二次世界大戦下、ヨーロッパで激戦が続いていた昭和18(1943)年の初秋、フランス・パリの街を、バスを連ねて観光する日本人の一群がいた。遺された写真を見ると、ほぼ全員が日本海軍の紺の軍服姿である。この光景を見て、ドイツ占領下のパリでは、日本が援軍を送り込んできたのだと、眉をひそめて噂する人たちもいたという。
この日本海軍の将兵は、どこから、なんの目的でやってきたのか。そして、その後、彼らはどうなったのか――。

75年前に地球半周が可能だった潜水艦

いまからちょうど75年前の昭和18(1943)年8月31日フランス・ビスケー湾の北西岸、ブレスト軍港に、3隻のドイツ海軍水雷艇に護衛され、さらに6隻の機雷原突破船に厳重に守られた1隻の潜水艦が入港した。

伊号第八潜水艦(伊八潜)、日本海軍の大型潜水艦である。

 

昭和13(1938)年に竣工した、当時としてはやや旧式艦だったが、潜水戦隊旗艦として司令部を置くことのできる設備をもち、基準排水量2231トン、全長109.3メートル、最大幅9.1メートル、魚雷発射管6門と、状況により発射管に換装できる魚雷格納筒2本、さらに14センチ連装砲1基(2門)をそなえ、飛行機1機(九六式小型水上偵察機)を搭載する。

最大速力は水上で23.5ノット(時速約43.5キロ)、水中で8ノット(時速約15キロ)。また、16ノット(時速約30キロ)の水上航走で、地球半周を優に超える14000浬(かいり/約26000キロ)の長大な航続力をもち、無寄港で連続60日の作戦行動が可能だった。

昭和18年8月31日、ブレストに入港直前の伊号第八潜水艦

伊八潜は、昭和16(1941)年12月8日の開戦時には、他の潜水艦とともにハワイ・オアフ島を包囲、機動部隊による真珠湾攻撃を側面より支援。昭和17(1942)年初頭には、偵察任務を帯びてアメリカ西海岸、サンフランシスコ港外にまで進出している。

同年7月15日、艦長が江見哲四郎中佐から内野信二中佐に交代、こんどは南太平洋、ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐる攻防戦で、輸送任務や陸上砲撃に従事。そして昭和18年3月21日、呉軍港に帰投したところで、ドイツへの派遣を命じられたのである。

第二次世界大戦当時、日本はドイツ、イタリアと三国同盟(日独伊三国同盟・昭和15[1940]年9月27日締結)を結んでいたが、地理的な遠さもあって、日本とドイツ、イタリアが直接、協同作戦を行ったのは、インド洋で、日独の潜水艦が通商破壊戦(インド洋を航行する敵船舶を撃沈し、人員、物資の輸送を妨げる)をともにした例があるのみである。

日本と独伊との直接連絡の方法も、陸路、空路ともに成功せず、残るは、敵の制空、制海権の下を潜行して突破できる、潜水艦による方法しかなかった。

ドイツ総統ヒトラーは、インド洋での日本潜水艦による通商破壊戦の強化を強く望んでいたが、日本側は太平洋の作戦に兵力を注がなければならないため、インド洋に十分な数の潜水艦を配備することができなかった。

そのため、ドイツとしては建造日数の短い中型潜水艦(Uボート)2隻を日本に無償提供するから、日本側はそれをモデルに多数の潜水艦を建造し、インド洋に配備してほしい、ということになった。2隻のUボートのうち、1隻はドイツ海軍が回航するが、もう1隻は日本海軍の手で回航することと決められた。

そこで、そのUボートの回航員(乗組員)をドイツまで輸送することを主な任務として、伊八潜がドイツに派遣されることになったのである。