大杉漣、西城秀樹の友人たちが「いまになって思うこと」

喪って改めてその大きさに気づいた
週刊現代 プロフィール

あの闘志こそが優しさだったんですね/山田久志(野球解説者)

星野仙一 享年70'18年1月4日没(膵臓がん)

私はパ・リーグの阪急ブレーブス、星野さんはセ・リーグの中日ドラゴンズと、選手時代に話したりすることはまったくありませんでした。

2人でじっくり話すようになったのは、中日の投手コーチに就任している期間です。

1999年、NHKで解説を終えて、東京プリンスホテルに戻る車中、LAに滞在していた星野さんから電話が入ったんです。それが、投手コーチの打診でした。あの時のことはいまでも思い出します。

ただ、その時はNHKのスポーツ解説やスポーツ紙での評論家として契約が残っていたうえに、巨人軍の長嶋茂雄さんからコーチ就任の要請も断っていたので、無理だと言ったんです。

そしたら、緊急帰国してアポも取らずに私の元までやってきたのだから驚きました。会うなり、目を真っ赤にして「中日を日本一にしたいんや。そのためにはお前が必要だから、力を貸してくれ」と訴えられたのです。

つづけて、「今からミスターのところにも行くし、NHKにも、日刊スポーツにも詫びに行く。だから、頼むから引き受けてくれ」と懇願されました。

その場では「考えるから、一日か二日待ってくれ」と言いましたが、あの時のことを想い返すと、その時点で結論は出ていましたね。それほどまでに自分を必要としてくれたのかと、心が動きました。

 

星野さんも私も元は投手。そのせいか、野球理論にも近いところがありました。そこを評価してくれたのだと思います。それから、中日のユニフォームを着ることになりました。

星野さん自身も、投手陣に色々と教えることもできたんでしょうけど、私がコーチに就任する時には「ピッチャーのことは99%はヤマに任す。あとの1%だけ俺にくれ」と、全幅の信頼を寄せてくれました。それで、この人のために優勝しなければ、と決意しました。

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その後、星野さんは私に後任を託して阪神の監督になりました。その時も「いままで自分が育ててきた選手・チームを他の人に渡したくない。共に戦ってきたヤマになら任すことができる」と言ってくれたのです。

監督をやるつもりで中日に来たわけではなかったので、残された当時は動揺しましたが、私は星野さんの熱意に惚れていたのかもしれません。

選手の時も監督の時も、ユニフォームを着たら闘志をむき出しにする星野さんですが、本当はとても優しい方なんです。投手コーチ時代、私は単身赴任で、妻とは離れて暮らしていました。

星野さんは気を遣ってくださって、たびたび妻に連絡していたのです。チームにかかわるすべての人を大事にしていました。

自分にとって、星野監督は心意気の人です。目に涙をためながら自分を誘ってくれたことを思い出すたび、また一緒に野球がしたかったなと、本当にそう思います。